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蓮法寺。横浜市神奈川区七島町にある日蓮宗寺院

蓮法寺の概要

日蓮宗寺院の蓮法寺は、本照山と号します。蓮法寺は、本照院日順が宝永7年(1710)足柄下郡荻窪村に創建、明治44年当地へ移転したといいます。当地にはかつて観福寺という真言宗寺院があり、観福寺には浦島太郎伝説が残されていたことから、当寺でも浦島太郎伝説の関係資料が残されているといいます。

蓮法寺
蓮法寺の概要
山号 本照山
院号 -
寺号 蓮法寺
住所 横浜市神奈川区七島町21
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



蓮法寺の縁起

蓮法寺は、本照院日順が宝永7年(1710)足柄下郡荻窪村に創建、明治44年当地へ移転したといいます。

新編相模國風土記稿による蓮法寺の縁起

(荻窪村)蓮法寺
本照山と號す、同宗(法華宗)下總國葛飾郡平賀村木土寺末、寶永七年、本照院日順建、本尊三寶及諸像ヲ置。(新編相模國風土記稿より)

「神奈川区史」による蓮法寺の縁起

本照山蓮法寺
県下足柄下郡荻窪村から明治四四年一二月四日本市青木町広台に移転した。(宝永七年の創立で寛政元年火災で旧記不明)
大正元年一二月堂宇の新築をとげたが、大正一二年九月一日震災に、堂宇が大破したので、大正一五年八月一日、現在の地に再建を遂げた。明治の移転と大正の再建は共に甲斐堯温日峯上人によるものである。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による蓮法寺の縁起

蓮法寺
位置
蓮法寺は、神奈川區子安町字七島三百十四番地にある。境内は三百四十九坪五合一勺。下總國東葛飾郡小金町平賀本山本土寺の末寺で、寺格は平僧六等である。
沿革
當寺は、明治四十四年、相模國足柄下郡荻野村より當市に移して再興したものである。寺院明細帳には、「寬改元己酉年月日不詳、大火ノ節、舊記殘ラズ燒失、是レガ爲メ創立年月日、及由緖等ヲ知ラズ。古老ノ傳フル處ニテハ、弘長年中、日郞尊者開基セル所ナリ。云々。」とあるが、新編相模國風土記には、蓮法寺、本照山ト號ス。法華宗。下總國葛飾郡平賀村木土寺末。寶永七年、本照院日順建、本尊三寶及諸像ヲ置。云々。」と記載されてゐる。之に據れば、當寺は寶永七年の創立で、其山號は、開山の院號を移したものと思はれる。明治四十四年十二月四日、其筋の認可を得て、市内靑木町字廣臺千八十番地に移し、大正元年十二月、堂宇の新築を遂げた。當時の境内は四百九十五坪、建物は本堂桁行六間、梁間五間の瓦葺、庫裡は桁行三間、梁間五間半の瓦葺、山門開十尺の瓦葺、境内佛堂の七面堂は、桁行三間、梁間二間、内陣は二間に三間半の瓦葺、本化上行堂は四間に三間の瓦葺、妙法二神堂は四尺に六尺の亞鉛葺、稽荷社は四尺四方、淨行堂は四尺四方等を具備してゐた、然るに大正十二年九月一日の大震災に、堂宇が大破を被つたので、大正十五年八月十七日、其筋の允許を得、現在の境内に移轉して、再建を邊ぐるに至つた。
本尊
本尊は妙法五字の寶塔・釋迦・多寶二佛である。(「横浜市史稿」より)


蓮法寺所蔵の文化財

  • 浦島太郎伝説関係資料(横浜市地域有形民俗文化財)

浦島太郎伝説関係資料

横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年(一八六八)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし、「江戸名所図会」「金川砂子」などの文献には縁起に関する記述がみられます。
それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が二〇歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
この浦島伝説が伝わっていた観福寺の資料は、同寺とふかりの深い慶運寺(神奈川区神奈川本町一八番地二)と、大正末期に観福寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(本寺)に残されています。
蓮法寺の供養塔三基は、若干の欠損と近年にいたって手の入った形跡が認められますが、浦島伝説を今日に伝えるものです。(横浜市教育委員会掲示より)

蓮法寺の周辺図


参考資料
  • 新編相模國風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」


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