猫の足あとによる横浜市の寺院、神社など横浜市の寺社案内 猫の足あとによる横浜市の寺院、神社など横浜市の寺社案内
猫の足あと

浄瀧寺。横浜市神奈川区幸ヶ谷にある日蓮宗寺院、妙湖尼創建

浄瀧寺の概要

日蓮宗寺院の浄瀧寺は、妙湖山と号します。浄瀧寺は、文応年間(1260-1261)に日蓮聖人が安房国から鎌倉へ旅行の時、妙湖尼が当初に営んでいた庵に立ち寄り、妙湖尼が日蓮聖人に感服して寺院としたといいます。旧跡寺院として知られ、江戸時代には池上本門寺の貫首が鎌倉へ往来する際必ず当所に立ち寄ったといいます。江戸末期の横浜開港時にはイギリス領事館に充てられていました。

浄瀧寺
浄瀧寺の概要
山号 妙湖山
院号 -
寺号 浄瀧寺
住所 横浜市神奈川区幸ヶ谷17-5
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



浄瀧寺の縁起

浄瀧寺は、文応年間(1260-1261)に日蓮聖人が安房国から鎌倉へ旅行の時、妙湖尼が当初に営んでいた庵に立ち寄り、妙湖尼が日蓮聖人に感服して寺院としたといいます。旧跡寺院として知られ、江戸時代には池上本門寺の貫首が鎌倉へ往来する際必ず当所に立ち寄ったといいます。江戸末期の横浜開港時にはイギリス領事館に充てられていました。

新編武蔵風土記稿による浄瀧寺の縁起

(神奈川宿青木町)浄瀧寺
瀧の橋より2町北の方へ行く処にあり。則宗興寺の隣なり。日蓮宗荏原郡池上本門寺末、妙湖山と号す。文応年中妙湖比丘と云もの開基せり。故に山号にてもその名をのこせり。縁起を按に、古へ境内稲荷祠の邊に瀧ありけるに妙湖その下二庵室をむすびて居れり。故に浄瀧と号せり。文応年中僧日蓮安房国より鎌倉へ旅行の時、此所に立寄りけるが、妙湖比丘日蓮の法をききて感服し、此時改宗して弟子となれり。日蓮瀧の下にて狂歌、瀧のもとのこだかき庵に住む妙湖、火にも水にも漂わらさん、しかりしより後は此庵室にすむ僧たへざりしに、天文年中北条氏綱上杉朝定と神代寺の原にて合戦の頃、兵火の為に寺中盡く焼失して一旦廃寺となりしに、永禄年中大巧院日能と云僧、当時の旧跡にして既に三百年に及びしことを、池上本門寺の現住日現へ訴へて免許を蒙り、再び一寺をいとなめり。北条家没落の頃は、此地の領主平尾内膳うつていて度々防戦ありしに、その時又兵火の為に烏有となれり。時の僧日照と云もの旧跡の永く断絶し、本尊以下の朽廃をなげき、又本山へ請て興復せしにより、甚功労をもて日照るへ法印の号をゆるされしとぞ。其頃までも境内の地海道の往還へかかりてありしが、御入国の時東照宮此所を過され給ひしに、すべて海岸にそひて道の幅せばかりしにより、今の所へうつすべきよし命ぜられけるなり。其後日善日祐の二代不受不施の法律を固執せしかば、朝憲にふれて退院せられしとき、かの僧等寺宝記録以下をもち去りける。然りしよりこのかた古のことはことごとく傳へを失ひしといへり。されどこの後も寺はもとの如く相続せり。本山の貫首鎌倉へ往来の時は、今も必当所に休息するを例とせり。本堂9間に7間、本尊三宝を安ず。
寺宝
日蓮木像一体。1尺3寸の坐像なり。日蓮佐渡国へ配流の時開基妙湖別を惜み、この像を彫刻して常に敬礼せしが、後日蓮赦にあひて鎌倉に帰りしとき自ら開眼せりと云。
曼陀羅一軸。日蓮の筆なり。
三十番神堂。門を入て左にあり。2間四方拝殿3間四方なり。
稲荷社。同ならびにあり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による浄瀧寺の縁起

文応年中(一二六〇~六一)妙湖比丘が開基したといい、山号はその名をもって名付けたといわれる。
『新編武蔵風土記稿』に「古へ境内稲荷祠ノ辺ニ滝アリケルニ妙湖ソノ下ニ庵室ヲムスピテ居レリ、故ニ寺ヲ浄滝ト号セリ文応年中僧日蓮安房国ヨリ鎌倉へ旅行ノ時、此所ニ立寄リケルガ、妙湖比丘日蓮ノ法ヲキキテ感服シ、此時改宗シテ弟子トナレリ」とあるが改宗以前の宗旨は不明である。
往昔は域内の地は海道の近く、ために道幅を狭めていたので徳川家康江戸入国のとき、境内の移転を命じたので、のちの青木本陣鈴木家の寄進を受けて現在地に移転したという。
小田原北条氏の時代から度々の戦火にあって堂宇を焼失する難にあったが、僧日照の代に至って、旧蹟の断絶と本尊の朽廃を池上本門寺に訴へ、当寺の復興を行ったので日照は法印に昇給した。
徳川期に入ると、日善・日祐の二代は、不受不施派にくみして退院を命ぜられたとき、寺宝記録等を持去ってしまったので、古るい寺歴の伝へは不明となった。
然し寺運は開けて、本山の貫主が鎌倉へ往来の時は、当寺に休息することが、恒例になっていたという。
横浜開港とともにイギリス領事館に使用された。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による浄瀧寺の縁起

淨瀧寺
位置及寺格
淨瀧寺は、妙湖山と號し、神奈川區靑木町字幸ヶ谷二百九十番地にあり。境内は千百九十三坪。官有地。日建宗本山池上本門寺の末で、寺格は準金襴三等寺である。
沿革
文應年中に、妙湖比丘(明細帳には妙湖禪尼とある。)の開基したところであるので、山號に其名を命じたといふ。新編武藏風土記稿に緣起を引いていふ、古へ境内稻荷社の邊に瀧があつて、妙湖が其下に庵室を構へてゐたから、寺を淨瀧と號したのである。文應年中、僧日蓮が安房國から鎌倉へ旅行の時、此所に立寄つたので、妙湖比丘が日蓮の法を聽いて感服し、此時改宗して弟子となつた。日蓮は瀧の下で「瀧のもとのこだかき庵に住む妙湖火にも水にも漂わらさん」と狂歌を詠んだ。其後は此庵室に住む僧絕えなかつたが、天文年中、北條氏綱が上杉朝定と神代寺の原で合戰の頃、兵火の爲めに寺中が盡く燒失し一旦廢寺となつた所、永祿年中、大巧院日能と云ふ僧が、當寺の三百年來の舊蹟であることを、池上の現住日現に訴へて、免許を得、再び一寺を營造した。北條家沒落の頃は、此邊の地頭平尾内膳が討つて出で、度々防戰したのであつたが、其時又兵火の爲に烏有となつた。當時の僧日照と云ふ者、舊蹟の永く斷絕して、本尊以下の朽廢を嘆き、亦本山に請うて復興したので、其功勞を以て、日照に法印の號を允されたとのことで有る。其頃までも境内の地は海道の往還へかゝつてゐたが、家康入國の時、此所を通過したところ、すべて海岸に添うて道の幅狹かつたので、今の所へ附替へるやうに命ぜられたと云はれてゐる。其後日善・日祐の二代、不受不施の法律を固執したので、法に觸れて退院した時。彼僧等は寺寶・記錄以下を持去つたので、爾後寺傳は悉く失はれたと云ふことである。然し其後も寺は舊の如く相續した。本山の貫主が鎌倉へ往來の時は、必ず當所に休息するを例とした、云々。享保七年、銅鐘を新鑄し、文政・天保の頃は、九間に七間の本堂を具へて居た。風土記。開港の當座は、英國領事館に充當された。
本尊
十界の曼陀羅を本尊とし、左右に釋迦・多寶の木像が安置してある。(「横浜市史稿」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による浄瀧寺の縁起

浄瀧寺
浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。
法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。
聖人が「立正安国論」著作し、鎌倉幕府に建策した年でもある。
また、開港当時は、イギリス領事館に充てられた。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


浄瀧寺の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」


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