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駒形天満宮|横浜市神奈川区西寺尾の神社

駒形天満宮の概要

駒形天満宮は、横浜市神奈川区西寺尾にある神社です。駒形天満宮の創建年代は不詳ながら、享保14年銘(1729)の板があったといいます。元文5年(1740)に創建したという駒形明神社を昭和12年に合祀、駒形天満宮と称したといいます。

駒形天満宮
駒形天満宮の概要
社号 駒形天満宮
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 -
住所 横浜市神奈川区西寺尾4-28
祭日 例大祭9月25日
備考 -



駒形天満宮の由緒

駒形天満宮の創建年代は不詳ながら、享保14年銘(1729)の板があったといいます。元文5年(1740)に創建したという駒形明神社を昭和12年に合祀、駒形天満宮と称したといいます。

新編武蔵風土記稿による駒形天満宮の由緒

(西寺尾村)
天神社
村の東の方にたてり、神體は画像にて六寸許、それを板におして其裏に享保十四年と記せり、されは古きものにはあらず、昔此所に勧請せし年歴はさらに更につたへず、今の社は一間半に二間西南に向ひ坂の上にあり、その坂の麓に鳥居を建り、山の高凡八九丈許のぼりて社地にいたれり、その所は數株の松おひしげれり、此村の百姓次郎兵衛といへるもの世々神事にあづかれり。
末社稲荷社。本社に向て右の傍にあり小祠。
観音堂
十一面観音立像にて長一尺許、堂は東向三間四方村民呼で駒形慈眼堂と云、前に石階あり高二尺許、東寺尾村松蔭寺にて進退す。
駒形社
堂の右の方少し高き所に石坂あり、夫を上りて坂の上に鳥居二基あり、社地は元文五年松蔭寺の住職愚海の時建立せりと相傳ふ、昔里見義高と云人此處に居し頃、其下部に某なる者あり、義高出る毎に常に馬の口を取れり、彼下部後に故有て逐電せり、夫より遥の年月を歴て村民等多く疫病にかかり、此が為に大に悩みしかば、此ただ事にあらずいかさまものの怪なるべしと、其頃熱田の社人たまたま来りしが、うらかたをもて考へしに、全く彼口取の祟なりと里人に告しゆゆへ、其祟を受し民家十二軒の者集りて、彼者を駒形明神とあがめ、彼等が氏神とせしかば忽ち祟りも止しといへり、社は九尺四方神體は一つの岩を置り凡そ一貫目許なり、世に異なる神體なり。
里見義高墓
観音の堂に向ひ右の方にあり、是を土人於入道の墓と云、五輪の石塔なり臺石は失て五輪許あり、もとより文字はなし、其前には一間四方の祠あり、何の頃よりか小児疱瘡の類其外何病にても悩める者は、此墓へ祈れば必験ありと云り、祈願する者は側なる小石を取て、其悩む所を撫れば自ら平癒せり、平癒すれば其かしこまりにとて石の数を増て二つを納めり、よりて其墓の傍は小石多し、按に里見九代記に里見實堯の子を義堯と云、後法體となりて里見入道を號せり、此人上総國久留里の城にありてしばしば諸将と合戦あり、中にも天文七年十月八正院義明の催促に應じ下総國葛飾郡鴻の臺に打て出、北條氏康父子と合戦す、此時彼入道も敗軍に及び、上総國に至り天正二年六月朔日六十三歳にて逝せり、寺は同國本織村にありと云、此にいふ所の里見義高はもし同人にや、されど此人此邊を領せしことは前にもいへる如く他の書に見えず、又天正の頃は此邊みな北條に属せしかば、里見が領地あるべしともおもはれず、全く別人なるも知べからず。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による駒形天満宮の由緒

由緒は詳かでない。『新編武蔵風土記稿』「神体ハ画像ニテ、六寸許。ソレヲ板ニオシテ其ノ裏ニ享保十四年ト記セリ。サレパ古キモノニハアラズ、昔此所ニ勧請セシ年歴ハ、更ニツタヘズ」とある。
域内に至るには七二級の石段を登るが、その中途に少さな石の鳥居があって「天保六己未年正月吉日建立」と刻んである。(「神奈川区史」より)


駒形天満宮の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「神奈川県神社誌」