松蔭寺。横浜市鶴見区東寺尾にある臨済宗建長寺派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

仙鶴山松蔭寺。鶴見七福神の布袋尊、旧小机領三十三所子歳観音霊場

松蔭寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の松蔭寺は、仙鶴山と号します。松蔭寺は、鎌倉建長寺第30世勅諡佛壽樞翁妙環禪師が、隠居寺として正統庵と号して建武元年(1334)に創建したといいます。鶴見七福神の布袋尊、旧小机領三十三所子歳観音霊場11番です。

松蔭寺
松蔭寺の概要
山号 仙鶴山
院号 -
寺号 松蔭寺
住所 横浜市鶴見区東寺尾1-18-1
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



松蔭寺の縁起

松蔭寺は、鎌倉建長寺第30世勅諡佛壽樞翁妙環禪師が、隠居寺として正統庵と号して建武元年(1334)に創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による松蔭寺の縁起

(東寺尾村)松蔭寺
字向谷の内三角山と云所にあり、仙鶴山と號す、禅宗臨済派鎌倉建長寺末、開闢の来由を尋ぬるに建長寺第三十世佛壽禅師退隠の後、幽棲の地として此に庵を結び正統庵と號せり、今其時代に画し境内の圖あり古刹なること證すべしかの禅師は文和三年に寂せし人也、寺號を定しは中興開山僧廣山の時の事なるにや、此僧は延寳三年三月二十九日寂せり、寺號初は松音寺と書しが後に今の字に改めしなり、本堂南向にて七間半に六間、本尊釈迦の立像にして長二尺七寸なるを安ず、古器寳物等は多く火災の為に失ひしよしを云傳ふ、三十年程前に同じ除地の内東の方より今の所へ堂宇を移す、土人今其所を呼で本屋敷と云。
寺寳古圖一枚。
裏に正統菴領建武元□五□十二日とあり、其餘文字ありしと見ゆれど虫食て讀べからず。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による松蔭寺の縁起

松蔭寺
位置
松蔭寺は、仙鶴山と號し、鶴見區東寺尾町百二十番地に在る。境内は一千八坪。官地有。鎌倉建長寺の末、寺格は一等地・小机三十三所觀音靈場の第十一番の札所である。
沿革
草創の年代は詳かでないが、寺傳に據れば、當寺は、鎌倉建長寺第三世勅諡佛壽樞翁妙環禪師が創始した所と云ふ。旣ち禪師は、初め後嵯峨帝皇子、高峰顯日佛國々師に依師して、其法を嗣ぎ、後、建仁寺に出世し、尋いで鎌倉圓覺寺建長寺等に歷住され、隱退の後は幽棲の地として當山に入り、草庵を結んで正統庵と名付け、此所に棲居したのが當寺の前身であると言はれる。爾後、堂塔伽藍備はり、仙鶴山松音寺と稱して其後の武相に於ける有數の巨刹と為つたと云ひ傳はり、いつの頃か、寺號も松蔭と改まつて、今に至つたが、口碑に據れば、後に數度の囘祿にも罹り、什寶・舊記等の悉くも烏有に歸した為め、沿革等も全く其詳細を缺くに至つた。古來の堂宇は、今の境地に近い處に在つたが、囘祿數度の後に、山下より現地に移して再建したもので、今尙、舊地を元屋敷と稱して居ると云ふ。第二世の芳林和尙が中興以來は、年代不詳。法燈が連綿として、二十七世を歷て今に及び、其間の第十三世廣山和尙、第十九世天巖和尙、年代不詳。が各、中興したが、今の堂宇は延寶の頃、第十三世の廣山和尙が再建した所である。德川氏に至つて、境内、三段八畝七步、山林、三町三段一畝三步の地を各、除地とせられて居た。然るに、大正十二年九月一日の關東大震災に、堂宇は大破したので、現住の川上誠宗が修復を加へ、更に今は新たに復興の企劃中である。
本尊
本尊は釋迦牟尼如來の木立像、長一尺二寸、祕佛。作は不詳である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

鶴見区役所掲示による松蔭寺の縁起

松陰寺仏寿禅師の墓
松陰寺は、仙鶴山と号し、臨済宗鎌倉建長寺派に属して、建武元年(1334)の草創と伝えています。開山は、建長寺第三十世の枢翁妙環仏寿禅師で、「武蔵風土記稿」には、「建長寺第三十世仏寿禅師退隠ノ後 幽棲ノ地トシテ此ニ菴ヲ結ビ正統庵ト号セリ」とあります。
仏寿禅師は、文永10年(1273)下野国に生まれ、那須雲巌寺の後嵯峨天皇の皇子高峯顕日仏国国師について出家し、のち仏国国師の法を継いで、鎌倉の円覚寺建長寺に歴任しましたが、この間幽棲の地として寺尾に草庵を結んだのが松蔭寺の始まりといわれます。
仏寿禅師は、建長寺を退隠後、文和3年(1354)2月18日雲外庵で示寂し、松蔭寺に分骨されたものといわれます。寺宝に阿弥陀如来坐像があり、奈良時代の優作として認定され、現在東京上野の国立博物館に寄託されています。(鶴見区役所掲示より)


松蔭寺の周辺図

参考資料

  • 新編武蔵風土記稿