豊鹿嶋神社|東大和市芋窪の神社

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豊鹿嶋神社|蘇我倉山田石川麿が慶雲4年創建、旧郷社

豊鹿嶋神社の概要

豊鹿嶋神社は、東大和市芋窪にある豊鹿嶋神社です。豊鹿嶋神社は、蘇我倉山田石川麿が慶雲4年(707)に創建したといいます。明治14年には郷社に列格していました。本殿は東京都有形文化財に指定されています。

豊鹿嶋神社
豊鹿嶋神社の概要
社号 豊鹿嶋神社
祭神 武御加豆智命
合祀 -
境内社 -
住所 東大和市芋窪1-2067
祭日 -
備考 旧郷社



豊鹿嶋神社の由緒

豊鹿嶋神社は、蘇我倉山田石川麿が慶雲4年(707)に創建したといいます。明治14年には郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による豊鹿嶋神社の由緒

(芋久保村)鹿島神社
社地、一萬三千六百六十四坪、御朱印十三石、本社六尺上屋を設く、拝殿二間に五間半、幣殿二間に二間半、社傳を閲るに、慶雲四年の鎮座にて、武甕槌命を祭神とし、神體は龍王丸とて、則武甕槌命の太刀なりしといへど、神主も拝することを得ざるよし、社を造立ありしは、天智天皇第四姫宮なりしとも、又蘇我山田石河麻呂なりしとも記し、この外疑ふべきことをも記したれば、此社傳天文等の棟札あるをもて見れば、舊きよりの鎮座なりしことは知るべし、例祭は九月十五日なり。
神寶
武甕槌命鎧ノ袖、五寸許。
黄金石、五寸許。
錦几帳、東照宮御寄進なし給ひしよし、外に尾州亜相公この邊遊覧の折柄、當社に詣て自ら書して賜ひしといふ歌などありと云。
鐘、大鐘なり、銘に「奉納撞鐘一口、鹿島太神宮神前 建武三子年三月十三日 武州多東郡上奈良橋村 深井三郎源光義妻敬白」按するにここに載たる鐘銘に、多東郡上奈良橋村とあれば、當社草創の頃はこの邊奈良橋村の内にて、後別に一村となりしに、其のちからこの社も今の如くこの地に属せしものなるべし、又深井三郎日鍵義といへる人は、外に所見なし、もし此社の棟札にするせる、本旦那源憲光といへるものも、深井の子孫なるにや、これらのことその微とすべきものあらざれば今より知りがたし、又此鏡社頭にかけおきしを、いつの頃にかありけん奪はれて今はなし、ただ鐘銘のみをつたえり。
末社。白山祠、子之神祠、山王祠。本社の左右にあり、何れも僅なる祠なり。
神主石井市之進。社地の西方に住めり、此人の先祖石川出羽守は、ここの地頭酒井某と共に、大阪御陣にも出たりなどいへどさせる記録はなし。
石。社前の原上むはら生い茂れり中にあり、要石と稱す、其さまをいはば、長さ二尺五寸許、横四尺許、径り一尺五寸、黒色にしていと潤澤あり、かかる田間にありては、耕作の妨なりとて、いつの頃か百姓等よりつどひ、穿ちすてんとせしに、地下に至るほど石の形ますます大にして、たやすく掘得べきにも非れば、是より土人要石と稱せる名を得たりと、村老の口碑にのこれり、按るにこの石適々鹿嶋社前にあれば、かかる話を附會せしにや、覺束なし。(新編武蔵風土記稿より)

北多摩神社誌による豊鹿嶋神社の由緒

豊鹿島神社(芋窪1-2067)
天智天皇第四姫蘇我倉山田石川麿の創建と伝わる。明治十四年三月郷社に列せられる。(北多摩神社誌より)

北多摩神道青年会掲示による豊鹿嶋神社の由緒

豊鹿島神社
主祭神名 武御加豆智命
第四十二代、文武天皇の慶雲四年(七〇七)夏八月
社殿像立、第三十八代 天智天皇
第四の姫、及蘇我倉山田ノ石川麿
都重宝(建造物)
御本殿付棟札、天文十九年建立の記がある。新編武蔵風土記稿(巻一二〇)によると文正元年の棟札の存したことが記されているので天文十九年は再建であろう。
例祭日九月十五日
境内末社。日吉神社、産産社、稲荷神社、愛宕神社、白山神社
鹿島の要石。御本社南方約三丁余(北多摩神道青年会掲示より)

豊鹿嶋神社所蔵の文化財

  • 豊鹿島神社本殿(東京都指定有形文化財)
  • 豊鹿島神社の獅子頭(東大和市重宝)
  • 豊鹿島神社本殿の狛犬(東大和市重宝)

豊鹿島神社本殿

豊鹿島神社は、狭山丘陵の一角を切り開いて古くから「鹿島様」と呼ばれて親しまれ、信仰を集め、「鹿島様」と呼ばれ親しまれてきました。本殿は、一間社流造で、都内に現存する最古、かつ唯一の室町時代建立の神社本殿です。その規模は桁行(間口)が170.7cm、身舎の梁間(奥行)が152.4cm、向拝の梁間はやや狭くて140.4cmである。この本殿の建築年代は、社家により天文一九年(一五五〇)に建立されたものと考えられてきました。しかし平成四年から六年にかけての解体修理時に発見された棟札により、文正元年(一四六六)に大工二郎三郎近吉の手により建立されたことが明らかとなりました。同時に、古くは屋根が厚板葺であったことも判明しました。(東京都教育委員会掲示より)

豊鹿島神社の獅子頭

この獅子頭三点は、江戸時代後期の作である。
市内で、古くから獅子舞が行われていたのは、豊鹿島神社と高木神社のみであった。雄獅子二頭、雌獅子一頭が一組となっている点で高木の獅子舞と共通している。
豊鹿島神社の獅子舞は、明治時代に途絶えたため、過去に獅子舞が行われていたことを示す唯一の資料となっている。また、その後も昭和三十年代まで雨乞いの神事にこの獅子頭が使われており、民間信仰の一端を示す資料としても価値が高い。(東大和市教育委員会掲示より)

豊鹿島神社本殿の狛犬

本殿前に安置されている狛犬は、市内で唯一の木製である。
木製の狛犬は三多摩地方全域をみても、豊鹿島神社の他に、大国魂神社谷保天満宮など数例が知られるのみて、きわめて貴重である。
阿形・吽形とも台座裏に宝暦十年(一七六〇年)加治中山下宿(現在の埼玉県飯能市中山)の塗師により製作されたことを示す墨書銘があるが、木彫に携わった者の名がないことから、これは修理を行った際の記録、実際の製作年代はさらに遡る可能性もある。
<墨書銘>
阿形:鹿嶋宮 加治中山下宿 天犬 宝暦十庚辰七月吉日
吽形:鹿嶋宮天犬 武州多摩郡井野窪村 宝暦十庚辰 七月吉日 加治中山下宿 塗師伊兵衛(東大和市教育委員会掲示より)


豊鹿嶋神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 北多摩神社誌(北多摩神道青年会むらさき会)