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桃林寺|台東区寿にある臨済宗妙心寺派寺院

桃林寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の桃林寺は霊雲山と号します。桃林寺は、奥平信政次男松平右京大夫家治の菩提を弔う為、松平右京大夫家治が開基となり、騎西保寧寺の南雄和尚を開山に迎えて慶長16年(1611)八丁堀に創建したといいます。

桃林寺
桃林寺の概要
山号 霊雲山
院号 -
寺号 桃林寺
住所 台東区寿1-19-1
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 禅スクエア桃林
備考 -



桃林寺の縁起

桃林寺は、奥平信政次男松平右京大夫家治の菩提を弔う為、松平右京大夫家治が開基となり、騎西保寧寺の南雄和尚を開山に迎えて慶長16年(1611)八丁堀に創建したといいます。二代住職浮山和尚は、小田原永久寺を開山しています。

御府内寺社備考による桃林寺の縁起

京都妙心寺末 浅草不唱小名
霊雲山桃林寺、境内古跡拝領地二千百一坪門前町屋在之
慶長十六年辛亥八月廿四日、八丁堀ニ而寺地拝領仕、其後寛永十二乙亥年五月廿二日、御用地二被召上、於当所代地被下置候。
開山南雄和尚は京都妙心寺開山関山国師、八世霊雲院大休国師、四世之孫勅号真空妙有禅師、元和九亥年十一月九日寂。尤先年当国崎玉郡騎西領日出安村東安山保寧寺住職中、道徳兼備ニ而道風大ニ振ひ緇素之帰崇する所也。故を以加納様被為及御聴御使者を以御当地二御招被遊、神田辺ニ草庵御作事被仰付。時々説法御聴聞被遊、増々御帰依礼遇優渥従足先、文禄元年辰三月四日、御二男家治公上州於長根ニ卒去。右為御菩提且は御武運長久御家門繁栄、為御祈祷兼而一寺を被為遊御建立度御願被達上聞、慶長十六年亥八月廿四日、於八丁堀寺地拝領当寺御建立被為遊候。加納様御二男右京大夫家治公御法号を以桃林寺与号。右南雄を開山与被遊候。
開基尊霊者
東照宮大権現様御長女亀姫君様後二奉称加納様与則奥平美作守信昌公之御室、寛永二年丑五月廿七日於濃州御逝去。
本堂。本尊釈迦牟尼如来。
今上皇帝御宸翰一軸。
開山禅師行状略一通。(行状中略)
以上乙酉書上
開基松平右京大夫家治。寺伝奥平信政次男松平右京大夫家治の菩提の為に慶長十六年八丁堀に建立。則家治を桃林院殿と号す。家治ハ上州長根にて七千石を賜ひしか文禄中死せり。上州小に葬る。今当寺に石碑ハあれと元より葬地にてハなし。寛永十二年此地に移れり又勢州桑名にも桃林寺あり是ハ明暦の頃当寺二代目の僧開きしなりと大久保家記別集云。当寺開山南雄ハ崎西の保寧寺といへる寺の住僧なりしか其頃加納殿崎西を領地せられしにより南雄か事聞及ひ江戸へ呼寄られ神田明神の下にて庵室を御建立。南雄を召置れ折々屋敷へ召法聴聞遊され尊敬他にことなり其後八丁堀にて桃林寺と申寺を建立。南雄を住職となされいよいよ尊敬と云云。
宝物
蓮糸三尊中将姫作
大久保家記前記云是ハ東照宮より加納殿へ参らセられ又加納殿より永久院殿進セられ、此寺へ御納となれり其後表具破損せしを養徳院殿より修復ありしなり。
可児才蔵墓
道空禅定門承応三年五月十九日とあり。寺僧にたゝせしに是ハ二代目の才蔵にて初福嶋正則に仕へ後新庄越前守か家来三好七郎右衛門といひしももの家に居りそれより阿部豊後守か家人となり何の頃にや故ありて出奔し家断たりと云。初代の才蔵か墓ハ埼玉郡忍の丸墓山にありといふ。以上改撰江戸志
武州浅草禅宗桃林寺
桃林寺開山南雄と中老、崎西保寧寺と申寺之住持ニ而御座候。其時分加納様崎西を御領地被遊候ニ付、南雄義及御聴御当地江御呼寄被遊候而、神田明神之下ニ而庵室を御建立被遊南雄を被召置。折々御屋敷江被召寄説法御聴聞被遊候而、御尊敬被遊候。其後八丁堀ニ而桃林寺と申寺を御建立被遊南雄住職被仰付。弥添御尊敬被遊候所ニ南雄ハ元和年中遷化仕候。其弟子二代目を浮山と申候を打続御尊敬被遊候処、南雄遷化三年目に加納様御逝去被遊候。御法名盛徳院殿香林慈雲大姉と奉号。其以後従永久院出世被仰付紫衣ニ被遊候而より五六年目ニ永久院様御逝去被遊候。則御尊骸当寺江御人被遊浮山御焼香御引導申上候此時二束照権現様加納様江被進又加納様永久院様江被進候中将姫之作蓮糸之三尊を当寺江御納被遊候。其後表具破損仕候故養徳院様より御表具被仰付、今以当寺宝物二面御座候。
三代目を乾谷と申候。是も本源院様紫衣ニ被仰付候。
四代目を旧田と申候。三代目四代目共ニ住持之年数無御座候。五代目先住大周と申候。此時寺類焼仕候ニ付従本源院様御建立被遊候。右之条ニ書付も無御座候得とも、当寺開山之弟子鉄首座と申老僧九拾七歳ニ而元禄四未年相果申候。是老僧永久院様江も御目見仕候由右之趣折々物語仕候ニ付、相記置申候。二代目浮山と申候得共小田原永久寺之開山二御座候。
奥平大膳亮様御義と加納様御由緒ニ而当寺御檀那ニ御座候処、四代目旧田と申住持之節禁酒仕候義、御意ニ入申訳有之御旦那御引被遊候。然とも五代目先泡之節は別而御懇意被仰聞、寛文六年午五月類焼仕候時分、早速庫裏書院御建立被遊候。此以後外ニ奥平様御建立之儀及承不申候。
当寺寛文六年午五月焼失仕候処、其年中ニ奥平大膳亮様より庫裏書院御建立被遊候。翌未年従本源院様方丈位牌堂表門等結構ニ被仰付候。御普請出来以後、本源院様御参詣被遊緩々与御語被遊候。其節迄ハ表門裏門斗ニ而四方共二薮垣ニ御座候処、御覧被遊候而四方之囲等見苦敷、無之様ニ塀を還可申由御意被遊候而、則普請方役人江被仰渡候。其刻之住持当分ケ様ニ結構ニ被仰付候処、後刻致迷惑候間、塀之儀ハ御用捨被遊被下候様ニ願申候得とも不及兎角御普請被仰付其刻之塀ハ腰板を打屋根共ニ御座候。
享保九辰二月桃林寺類焼二逢候節、此方江差出候願書之内ニ有之候は、当寺之儀ハ御屋敷之御威光多年当所二安住仕候。其子細ハ元禄十丑年右寺之儀公儀御用地二被召上候筈ニ相究り候得とも盛徳院様御開基御牌所永久院様御遺骨御廟所此両様之儀を松平美濃守様江書付を以申上候所、早速被達上聞、某日之昼八ッ時ニ井上大和守様御差紙被下候故、先住早速参上仕候処、大和守様直ニ御逢其方境内之儀此度御用地二被召上諸役人江割渡し申筈ニ相極候所、今日俄ニ桃林寺儀只今迄之通ニ差置可申旨被仰出候。依之桃林寺儀ハ永代不変之地ニ罷成候。此段為可申渡呼出候間難有奉存早々罷帰弟子共江も申聞喜悦為致可申由被仰付候。右之趣享保五子年九月桃林寺当住松禅書付差出申候処略之。
桃林寺享保九辰二月類焼二逢候。為御見廻白米弐俵味噌一樽被下置候。
正徳二辰年桃林寺相願心観院様御代御位牌所普請料旁白銀百枚被下候。此度御位牌所間数弐間ニ九尺相定候。積大概金拾八両余ニ而出来可致二付、辰三月桃林寺呼寄金弐拾両被下候。余略之
家康公様之御娘奥平古美作守信昌様之御前様
盛徳院殿香林慈雲大姉御位牌有
寛永二年乙丑五月廿七日
盛徳院様御石塔ハ無御座候。御位牌ハ寛文六丙午年迄ハ奥平様御安置被成候所ニ、桃林寺先々住
旧田時代ニ奥平大膳亮様御菩提寺江御引品川東海寺地中清光院と申寺御菩提所ニ被遊御先祖様之御位牌御石塔ともニ御引被成候。其節盛徳院様之御位牌をも御引被成候由ニ御座候。桃林寺は盛徳院様之御開基ニ付、御位牌御安置不仕儀本意不成候故、先住手前御位牌建立安置仕候。
大久保加賀守忠常様之御前様加納様之御娘
永久院殿梅陽栄玉大姉御位牌御石塔有
寛永廿癸未未年四月廿六日
忠常様之御娘本多飛騨守様之御前様
養徳院殿安室貞心大姉御位牌御石塔有
延宝七己未年五月九日
養徳院様御位牌御石塔共二本多飛騨守様御安置被遊候。御施餓鬼料御仏供米被遣来候処、飛騨守様御不仕合以後ハ御石塔之御修復共二此方様被仰付御仏供料も被遣候。大久保家記別集(御府内寺社備考より)


桃林寺の周辺図


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