法恩寺|新宿区須賀町にある法華宗系単立寺院

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正妙山法恩寺|新宿区須賀町にある法華宗系単立寺院

法恩寺の概要

法華宗系単立の法恩寺は、正妙山と号します。法恩寺は、常行院日禎上人(延宝3年1675年寂)が寛永元年(1624)麹町4丁目に創建、明暦年間に当地へ移転したといいます。

法恩寺
法恩寺の概要
山号 正妙山
院号 -
寺号 法恩寺
住所 新宿区須賀町13
宗派 法華宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



法恩寺の縁起

法恩寺は、常行院日禎上人(延宝3年1675年寂)が寛永元年(1624)麹町4丁目に創建、明暦年間に当地へ移転したといいます。

「四谷區史」による法恩寺の縁起

正妙山法恩寺は京都二條妙満寺末の日蓮宗日什門派、四谷南寺町にあつて、境内古跡拝領地貮百六拾六坪を有する。寛永元年甲子に起立し、開基常行院日禎は延寶三年乙卯三月廿六日に入滅した。享保十年二月に類焼の厄に遇ひ一切の書物を失うたので凡ては不詳である。
文政寺社書上中に、「往古抱家鋪御座候儀は、大久保村天神前御箪笥同心給地百姓九左衛門と申者、寛永六巳年持添地八百八拾四坪半當寺江寄進仕、其身剃髪壽延坊と號し草庵を結び、即菴號に致し住居仕候處、其後承應二巳年相果、善性院日有と相贈り、此地に石塔建置、其外石塔も有之候處、明暦三酉年當時拝領地の内江、辻番所被仰付候に付、右地所に有之石塔共抱家鋪へ引移、夫より以来檀方石塔追々建来り候に付延寶七未年此地に一寺建立、壽延坊を寺號に仕候旨板倉石見守様江奉願候得共不相叶、重て寺建立仕間鋪段地改之御方へも證文差上申候、尤古来より有来り候儀に付、墓所に仕度旨猶又奉願候處、御吟味の上今迄の通、抱家鋪惣構相成り、竹垣に可差置旨願之通被仰付、同所名主へも被仰渡所持仕来候處、後年年貢諸役等多分之場所に付、天明五巳年十一月檀縁高島朔庵え地所不殘譲り渡申候、檀家開基之儀は其節當地江改葬仕候、最初寄進人日有儀は當時五代目世代に相立置申候」と見えるが如く、延寶當時寺院を新設することの、漸く困難なるが察し得られる。猶こゝに百姓九左衛門とあるのは新編武蔵風土記稿に記した島田久左衛門のことであらう。久左衛門は大久保村の富家で、土地寄進などは容易に爲し得た人物であつた。(「四谷區史」より)

「四谷南寺町界隈」による法恩寺の縁起

正妙山という。今は単立となっているが、元は顕本法華宗一乗派で、書上には京都二条妙満寺末で日什門派とある。
寛永元年麹町4丁目に、常行院日禎上人(延宝3年乙卯3月26日寂)が創建した。或は日什上人ともいう。
一説には、開山は赤坂常玄寺(赤坂一ツ木、清水山、元和3年日盛上人開山)の日代上人ともいうし、明徳2年(1391)に起立し、麹町より明暦年間(1655-)に現地に移るとあるが、明徳2年は元中8年で足利時代であって、年代の相違があり、やはり寛永創建説が適正のようであって、明暦移転説が正説に近かろう。
四谷区史は「文政寺社書上げ」を引用して、
往古抱屋敷御座候儀は、大久保村天神前(今の新宿西向天神社)御箪笥同心給地、百姓九左衛門と申者、寛永6巳年持地884坪半、当寺へ寄進仕り、其身剃髪し寿延坊と号し、草庵を結び、即ち庵号に致し住居仕候処、其後承応2巳年相果、善性院日有と相贈り、此地に石塔建置、其外石塔も有之候処、明暦3酉年当時拝領地の内え、辻番所被仰付候に付、右地所に有之石塔共抱屋敷え引移り、夫より以来檀方石塔追々建来り候に付、延宝7未年此地に一寺建立、寿延坊を寺号に仕候旨板倉石見守様え奉願候得共不相叶、重て寺建立仕間鋪段地改之御方えも証文差上申候、尤古来より有来り候儀に付、墓所に仕度旨猶又奉願候処、御吟味の上同所坪数の内西南の方にて二百坪御免被仰付、右坪数之外680坪余の分、新規屋作等も仕間敷旨、且表入口は只今迄の通り、抱屋敷惣構相成り竹垣に可差置旨願之通被仰付、同所名主えも被仰渡所持仕来候処、後年貢諸役等多分の場所に付、天明5巳年11月檀縁高島朔庵え地所不残譲り渡申候。檀家開基の儀は其節当地え改葬仕候。最初寄進の人日有儀は当寺5代目世代に相立置申候。
と見えるが如く、延宝当時寺院を新設することの漸く困難なることが察し得られる。(延享にも新寺設立は禁令されている)猶ここに百姓九左衛門とあるのは、新編武蔵風土記稿に記した島田久左衛門のことであろう。久左衛門は大久保村の富豪で、土地寄進などは容易に為し得た人物であった。(四谷南寺町界隈より)


法恩寺の周辺図