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西向天神社|新宿区新宿の神社、東大久保村鎮守、村社、棗の天神

西向天神社の概要

西向天神社は、新宿区新宿にある神社です。安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたといいます。その後荒廃していましたが、寛永年間(1630年代)に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗を下賜されたことから棗の天神ともいわれます。東大久保村の鎮守、明治5年には村社に列格していました。東都七福神の一つです。

西向天神社
西向天神社の概要
社号 西向天神社
祭神 菅原道真公
相殿 稲荷大神、厳島大神、秋葉大神
境内社 富士塚
住所 新宿区新宿6-21-1
祭日 -
備考 東大久保村鎮守、村社、もと別当大聖院



西向天神社の由緒

西向天神社は、安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたといいます。その後荒廃していましたが、寛永年間(1630年代)に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗を下賜されたことから棗の天神ともいわれます。東大久保村の鎮守、明治5年には村社に列格していました。

境内掲示新宿名所いまむかしによる西向天神社の由緒

安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗の天神とも呼ばれます。「江戸名所図会」ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの祭に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。
天正年間(1573-92)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠が建てられ、その後、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った祭に、元信という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。
別当寺であった梅松山大聖院は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。
境内には、太田道灌の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。(境内掲示新宿名所いまむかしより)

新宿区の文化財による西向天神社の由緒

本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。
正式には大久保の天満宮と称し、菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したものである。社伝によると、安貞2年(1282)に京都栂尾の明恵上人(1173-1232)が東国に五大尊寺を開こうとして、菅原道真自作の尊像を持って下向し、翌年当地の村人と計って祠堂を建てて鎮守としたことにはじまるという。
これは伝承に近いものであるが、天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道晃法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたというから、同社の起源が、少なくとも中世までさかのぼることは考えられる。西向天神と通称しているのは、社伝が地形上西向きになっていることによる。さらに棗天神との俗称もあり、これは寛永年間(1630年代)に、将軍家の鷹狩りの祭に、当社が荒廃していたのを、金の棗の茶入れを下賜して、それをもって再興を促したという伝承によるものである。
文化10年(1813)に、諸国を遊歴した僧の著した「遊歴雑記」という本には、この神社が、慶安から天和頃までは、境内に桜が多く、花見の名所であったこと、ご神体の木像の天神像は長さ7、8寸の荒木の座像であったといっている。
明治5年11月に村社となり、社地は1516坪であった。境内には現在でも石造物などの文化財が多く、境内の西隅には富士塚もある。同社の別当寺は隣接する大聖院である。(新宿区の文化財より)

東京都神社名鑑による西向天神社の由緒

安貞三年(一二二九)、梅尾高弁明恵上人奉拝の菅公自刻の尊像を当地に祀れるに起因する。天正年間(一五七三-九二)、兵火にかかったが、太田道道灌、神田社領を寄進し、社殿の結構旧に倍した。当時、境内に鶴巣林・洞竜池・残雪渓・望岳楼・座禅石・瑞現桜・鎌倉道・多宝塔・紅梅林・閼迦井の十貴があり、聖護院門跡、道晃法親王、東国下向のさい、感賞の和歌を詠じ、夢見法師玄信を当社別当とした。当社、また、棗天神・夢想天神の別称があり、前者は徳川家光社殿改修の資に黄金の棗を献納し、後者は内藤豊前守の息女、夢想によりて病気平癒するによる。昭和二十年四月十三日、戦災にて、本殿・神楽殿・神輿庫(旧社殿)を残し、他は焼失した。(東京都神社名鑑より)

新編武蔵風土記稿による西向天神社の由緒

村の鎮守なり。棗の天神とも西向天神とも号す。安貞年中栂尾山明慧上人東国に五大尊寺を興営せんとして、菅家自作の像を懐にし、下向して先当所の郷民と議し、祠を建て鎮護神とす。其後天正の頃兵火に罹り灰燼となりし時、不思議に尊像のみ渓間の樹上にあり、郷人等奇異の思をなし、青山将監と云者と力を戮て更に経営せるもの則今の社頭なり。一年聖護院道晃法親王東国経歴の時、法印元信に命して当社の別当とし、社宇を修補して頗古に復すと云。例祭は隔年6月25日。
末社、孔雀明王、稲荷、弁天、白太夫社、石尊、神明、秋葉、浅間。
宝篋塔、春日局別荘にありしを、後に当社に寄附すと云。
瑞現桜、兵火の頃神体飛行して止りし木なりと云、古木は枯て近き頃植つけり。(新編武蔵風土記稿より)


西向天神社所蔵の文化財

  • 神楽殿鏡板の絵
  • 狛犬二対
  • 大久保菅公廟碑
  • 西向天神祠碑
  • 富士塚

神楽殿鏡板の絵

根本に笹をあしらった一本松の彩色の版画であり、大和絵の大家である高取雅成が描いたものである。高取は慶応4年の生れで、佐賀県出身である。自宅が戸塚にあって、そこで歿して百人町の長光寺に葬られた。

西向天神社の周辺図




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