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大聖院|新宿区新宿にある天台寺門宗寺院

大聖院の概要

天台寺門宗の大聖院は、梅松山五大尊寺と号し、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。

大聖院
大聖院の概要
山号 梅松山
院号 大聖院
寺号 五大尊寺
住所 新宿区新宿6-21-11
宗派 天台寺門宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖院の縁起

大聖院は、中世より春日部にありましたが、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていました。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。

新編武蔵風土記稿による大聖院の縁起

西向天神社別当大聖院
本山派修験京都聖護院末梅松山五大尊寺と号す。世々正大先達職なり。本尊不動、寺宝に太刀一振あり、猫丸と称す。由来詳かならず。
紅皿塚。塚は崩れて断碑のみあり。文字隠滅して読得ず。世俗に語伝ふる紅皿欠皿の舊蹟なりと云。且太田道灌狩して雨に遇し頃、少婦の山吹枝を折て、みのひとつたになき心をさとせしと云伝ふるも、かの紅皿か所為なりなと附会していひ伝へり。(新編武蔵風土記稿より)

ガイドマップ新宿区の文化財による大聖院の縁起

天台寺門宗の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
本寺は不動院といって、西向天神社の別当寺であった。一説によれば、寛正年間(1460年代)に牛込重次が創建したというが、牛込氏に重次という人はいないし、同寺は中世には現在の春日部市にあったことがはっきりしているので、確かなことではない。
西向天神の中興者が玄信大僧都であったことから本山派修験との関係が強かったことがわかるが、大聖院も現在地へ移転する前から本山派に属しており、移転後は同派の江戸番所を勤めている。
江戸時代の大聖院は、聖護院門跡の直末として、天台宗兼正大先達という位置にあり、院家に準ずる格式であった。
明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれたが、その際、同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。主なものを列記しておくと、天満宮由緒書、天満宮出自記、東大久保村地誌書上帳、不動明王縁起、大聖院境内図書上、紅皿縁起などがある。
境内は狭く、ほとんど古いものはみあらたないが、ただ一つ、太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名である。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので、崖崩れのために現在地へ移したといい、江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。(ガイドマップ新宿区の文化財より)


大聖院にある新宿区文化財

  • 大聖院文書(新宿区登録文化財)
  • 紅皿の墓(新宿区指定旧跡)

大聖院文書

大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ2巻5冊1葉である。
内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神社の由緒に関するものが多いが、文政7年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。
点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。(新宿区教育委員会掲示より)

紅皿の墓

太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
板碑は区内では唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し「御拾遺集」の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献を含めた史跡として位置づけられ貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)


大聖院の周辺図


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