品川寺|品川区南品川にある真言宗醍醐派寺院

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海照山品川寺|真言宗醍醐派別格本山、江戸三十三観音、東海七福神の毘沙門天、江戸六地蔵

品川寺の概要

真言宗醍醐派の品川寺は、海照山普門院と号し、真言宗醍醐派の別格本山です。品川寺の創建年代は不詳ながら、当初金華山大円寺と称し、本尊は弘法大師が東国巡行に際して押領使品川某へ譲った水月観音で、応永年間(1394-1428)の上杉禅秀の乱に際し品川一族が討死した際にも草堂に匿し置かれ、太田道灌も深く感応し、太田道灌の持仏を本尊とした観音堂を建立したと伝えられます。永禄12年(1569)武田信玄が品川を占拠した際、残らず焼き払われ、水月観音も持ち去られたものの、奇異な事が起こり続けたころから当地へ戻されたと伝えられます。阿闍梨法印弘尊が堂宇を再建し承応元年(1652)に中興開山、海照山普門院と号するようになりました。太田攝津守資直は(太田道灌が観音堂を建立した縁から)個人的に寺領100石を貞享3年(1686)に寄附しています。江戸三十三観音霊場31番霊場、東海三十三観音霊場21番札所、東海七福神の毘沙門天となっている他、山門前には江戸六地蔵の一つが安置されています。

品川寺
品川寺の概要
山号 海照山
院号 普門院
寺号 品川寺
住所 品川区南品川3-5-17
本尊 正観世音
宗派 真言宗醍醐派
葬儀・墓地 -
備考 真言宗醍醐派別格本山、江戸六地蔵江戸三十三観音霊場31番霊場、東海三十三観音霊場21番札所、東海七福神の毘沙門天



品川寺の縁起

品川寺の創建年代は不詳ながら、当初金華山大円寺と称し、本尊は弘法大師が東国巡行に際して押領使品川某へ譲った水月観音で、応永年間(1394-1428)の上杉禅秀の乱に際し品川一族が討死した際にも草堂に匿し置かれ、太田道灌も深く感応し、太田道灌の持仏を本尊とした観音堂を建立したと伝えられます。永禄12年(1569)武田信玄が品川を占拠した際、残らず焼き払われ、水月観音も持ち去られたものの、奇異な事が起こり続けたころから当地へ戻されたと伝えられます。阿闍梨法印弘尊が堂宇を再建し承応元年(1652)に中興開山、海照山普門院と号するようになりました。太田攝津守資直は(太田道灌が観音堂を建立した縁から)個人的に寺領100石を貞享3年(1686)に寄附しています。

「品川区の文化財」による品川寺の縁起

初めは金華山大円寺と称し、後改めて海照山普門院と号する。中興開山弘尊が承応元年に再興した。貞享3年7月太田摂津守資直はひそかに寺領100石を寄附した。本尊の正観音は太田道灌の持仏で、長禄年品川の館から江戸城に移った頃、武運の長久と城中及江戸鎮護の為、この本尊を堂内に安置して伽藍を建立した。
水月観音は竜宮出現の像と伝えている。弘法大師が東国遊行の時、この地の押領使品川某に附属され、その家に代々仕えて品川左京亮の時に至っている。後応永年中上杉禅秀の乱の時一族皆討死する。その時本尊を草堂にかくしていた為世に伝えていると云う。妙国寺所蔵永享10年某氏憲泰の寄附状に、寺の南に観音堂のあることを載せているのはこの堂であるとも云う。
その後関東は大いに乱れ、多くの自社の兵火に焼失し、永禄9年小田原の北条氏政今川家に加勢して武田信玄と戦う時に、信玄の北からの急撃により、江戸・品川の民家寺社を焼き払った。当寺も兵火の為ことごとく焼失し、竹森、蔭村という二人の武士によって本尊はうばわれたが、甲州に帰ってまもなく発狂し、本尊を元の地へ遷す様霊夢があって、一人の乞食の聖に頼み旧地にかえしたが、堂宇も焼け亡んでいる為、その礎石の上にわら小屋を作り安置した。その後弘尊法印が堂宇を建立して海照山普門院と唱える様になった。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による品川寺の縁起

(南品川宿下)品川寺
拝領地四千八百坪餘、妙國寺の南隣にあり、初は金華山大圓寺後改て海照山普門院と號す、新義眞言宗醍醐三寶院の末、中興開山弘存承應元年再興し、寛文十一年正月十一日寂す、貞享三年七月太田攝津守資直私に寺領百石を寄附す、本尊正觀音は深秘し、側に水月觀音像を安ず、縁起云、聖觀音は弘法大師の作、太田道灌持佛の本尊なり、長禄年中品川の館より江戸城に移しし頃、武運の悠久城中及江府鎮護の爲、彼本尊を此堂に安して伽藍を建立すと云、又水月觀音は、龍宮出現の像にて尤も靈驗あり、或説に水月觀音は弘法大師の持佛閻浮檀金もて造る所、海中出現之像なり、大師廻國の時郡の押領使品川某に附屬し、其家世々傳へて品川左京に至る、應永年中上杉禅秀亂の時品川の一族皆討死す、當時本尊を草堂に匿置たるをもて世に傳ふと云、又一説に太田道灌品川を領せし頃、この水月觀音の像を得て深く信し、一宇の堂を草創して安置せりと、今按ずるに妙國寺所蔵永享十年氏憲が寄附状に、寺の南に觀音ありし由を載、地域を以て考ふるに此堂なること明けし、縁起又云、亂世兵火の爲に伽藍悉く焼亡し本尊は甲州に奪ひ去て或村里に安ぜしに、一見童口はしりて我は是武州品川金華山の觀音なり、暫くも此所に留置ことなかれ、早く品川に歸し送るべしと、村民恐怖して歸し奉らんと欲れど、亂世なれば諸國たやすく通る事を得ず、先隣里に送りければ、其所の者亦發狂すること前の如し、武田信玄聞て奇異の思をなし、恭敬禮拝して品川に送り返せしとなり、然れども伽藍回禄の後住僧もあらざりければ、土人纔に藁葺の堂を立安置せりと、【小田原記】等の書この事を載て云、永禄十二年九月上旬、小田原の北條氏康甲州の武田信玄と戰ひし時、信玄武州に討て出、江戸品川を追捕し、その處に立る大圓寺の本尊水月觀音堂を初め、神社佛閣のこらず焼拂、住僧法印をもことごとく害せり、其時ふしぎに此本尊は免て武田家にわられり、彼家人竹森花村の二人此像をとりて甲州に行しに、俄かに大熱狂亂して云、我は武蔵國品川の大圓寺のものなり、速に元の地へ返へしと罵れり、然れどもかの地は敵國なれば返すべき便もなかりしに、其頃一人の乞食甲州にさまよひ来れり、本國を問ば武蔵なりと云、かの者にしかしかの事を云含めで元の地に返さしめしかば、かの乞食もりかへりて昔の堂の礎の上にわを屋を作りて安置しけりと云々、其後阿闍梨法印弘尊と云人あり、僧羽州上の山某寺の住僧にして、若年より觀音を信仰す、或時夢に老人来て當寺の住時となる、當時此觀音の舊記の説台聴に達しければ、承應元年五月境内拝領の地となる、よつて堂宇を再興して本意を遂壽命百四十歳を得たり、今中興開山とす、俗に壽命觀音と號するも弘尊か故なり、又此觀音堂建立のこと太田備中守資宗入道道顯先祖の由緒を思ひ、財を捨て賛成せしとなり、又金花山を改めて海照山と號することは、昔海上颱風起て數百艘の船危かりしに、船中の貴賤みな此觀音に祈誓して萬死の難を遁れしゆへ、海照山と名づけしと云、本堂は五間に四間東に向へり、
稲荷社。本堂の南にあり、境内の鎮守なり、本社二間に一間、拝殿二間に九尺なり、
天神辨天稲荷合社。本堂の北にあり小祠、
鐘樓。稲荷社の東にあり、鐘徑三尺許、東照宮台徳院殿大猷院殿の御謚號を款文に出し、下のめくりに六觀音の像あり、刻して云明暦三丁酉年九月十八日、海照山品川寺普門院中興開山傳燈師大阿闍梨法印權大僧都弘尊大和尚位納之兼筆矣と、其下に六觀音像は京七條大佛師康斎撰せしよし勒せり、その像いかにも精密にして尋常冶工の及所にあらず、其廻に普門品を細刻す、
光明石。本堂の前にあり、高六尺許天然石なり、庚申供養に立つ光明を放りしことあり、人これを奇としてかく名づくといへりと、
地蔵銅像。門外にあり、露座長九尺江戸六地蔵の一地蔵坊正元の立る所なり、
門前町屋。東海道の両側にあり、東側は間口五十一間半、西側五十間四尺、又横町に三十間四尺、歩數合で千五百二十五坪餘、元禄十一年寺社奉行坂本内記正次に願ひて町屋を立、延享三年より町方の支配に屬す、(新編武蔵風土記稿より)


品川寺所蔵の文化財

  • 銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)
  • 絹本著色仏眼曼荼羅図(日本国指定重要文化財)

品川寺の周辺図