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覚願寺|世田谷区上野毛にある真言宗智山派寺院

覚願寺の概要

真言宗智山派寺院の覚願寺は、自性山聖徳院と号します。覚願寺の創建年代は不詳ながら、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」の記載や、覚願寺檀家墓碑の記載から天文年間(1532-1555)以前の創建と考えられます。玉川八十八ヶ所霊場36番です。

覚願寺
覚願寺の概要
山号 自性山
院号 聖徳院
寺号 覚願寺
住所 世田谷区上野毛2-15-15
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場36番、鈴蘭幼稚園併設



覚願寺の縁起

覚願寺の創建年代は不詳ながら、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」の記載や、覚願寺檀家墓碑の記載から天文年間(1532-1555)以前の創建と考えられます。当初は台地下にあり、また本尊は聖徳太子像だったといいます。

世田谷区教育委員会掲示による覚願寺の縁起

自性山聖徳院覚願寺と称し、真言宗智山派に属する古刹である。
「新編武蔵風土記稿」には、「此寺元は村の西の方台の下にありしが、いつの頃か此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。
しかし、文禄三年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」には覚願寺の名が見えており、この頃寺地が確定したと考えられる。
本尊は大日如来で、脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。
なお、享保六年(1721)の「両大師造立帳」(当寺所蔵)には聖徳太子像(木像漆塗、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当寺の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためであろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで、現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。
文政七年(1824)には、本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。
現存する本堂、観音堂は、天保年間(1830-1843)に再建されたものである。
総門は、昭和六十三年に造営された。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による覚願寺の縁起

真言宗智山派に属し、自性山聖徳院覚願寺と称し、天文年間(今から約400年前)の建立と伝えられている。本尊は大日如来で、脇侍は弘法大師と興教大師で、位牌堂には聖徳太子、観音堂には聖観音像を奉安してある。
開基は詳らかでないがつぎの記録により天文年間、あるいはそれ以前の建立であることが立証される。
当山檀徒木村富次家の墓地に「天文十二年(1543)八月二十日、皈源寂山宗空居士覚粒・施主木村氏」の墓あり、同檀徒田中重義所蔵の検地帳(文禄3年1594年10月6日)に、検地の案内者木村外記の名がでており、その外記の子孫が前記木村富次家である。「御縄打屋敷帳」の中に「学岩寺」とあるのが当山覚願寺のことであり、その一節につぎのようなことが書かれである。「小松原(字名)十五間に十四間の下畑七畝、筑後分学岩寺作、宮の前(上野毛稲荷神社前)二十五間に十間半の中田八畝二十二畝 助七郎分覚願寺作「御縄御免引寺一一間覚願寺作」とあり一間とは1軒の義で、星敷帳はすべて「御縄打」測量の結果たる当時の課税台帳となったのであり、寺は免除されたのである。
なお、当山什物「過去帳」の中の、明和9年(1772)別当覚願寺権大僧都頼憲の誌文をみると、瀬田八幡宮鳥居造営とあるように、他村の八幡宮(現瀬田玉川神社)の別当をつとめた。
天保年間(1830-44)までは専住によって檀信徒の護持と教風の宣揚につとめてきたが、弘化年間より任住不明(または断絶)のまま明治8年に至り、ようやく内藤隆深(現深沢医王寺)先々住の兼務によって護持され、昭和3年12月森同隆宥の専住によって漸次寺門の興隆がはかられ、昭和25年5月現住職が着任し今日に至っている。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による覚願寺の縁起

(上野毛村)覚願寺
除地三段歩、字岸久保にあり。自性山聖徳院と号す。新義真言宗にて等々力村満願寺の末なり。開山開基等詳ならず。此寺元は村の西の台の下にありしが、いつの頃か此所に移せしと云。
本堂。寅の方に向ふ。堂は六間に五間なり。本尊大日如来を安ず。木の立像にて長け二尺余、又聖徳太子の像を本堂の内に安ず。作佛といひ傳れども詳ならず、長二尺許。
観音堂。向て左にあり、二間四方なり。(新編武蔵風土記より)


覚願寺の周辺図


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