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世田谷八幡宮|世田谷区宮坂の神社、世田谷村鎮守、旧郷社

世田谷八幡宮の概要

世田谷八幡宮は、世田谷区宮坂にある八幡宮です。世田谷八幡宮は、源義家が奥州征伐の戦勝御礼に宇佐八幡宮より分霊を勧請したと伝えられています。江戸時代には徳川幕府より11石の朱印状を拝領、世田谷村の鎮守となっていました。明治時代には、郷社に列格、宇佐神社と称していましたが、終戦後世田谷八幡宮と旧称に戻したといいます。

世田谷八幡宮
世田谷八幡宮の概要
社号 八幡宮
祭神 大己貴命・日本式尊・少彦名命
境内社 祓戸神社,三峯神社
相殿 -
祭日 例大祭10月第2日曜日
住所 世田谷区宮坂1-23-20
備考 旧郷社、世田谷村鎮守、江戸郊外三大相撲の一つ



世田谷八幡宮の由緒

世田谷八幡宮は、源義家が奥州征伐の戦勝御礼に宇佐八幡宮より分霊を勧請したと伝えられています。源氏からの崇敬が篤く、戦国時代には当地を支配していた吉良家の祈願所となっていたほか、徳川家康入府後には江戸幕府より11石の朱印状を拝領、世田谷村の鎮守となっていました。また、古くからの祭礼として相撲が奉納されており、当社の相撲は、渋谷氷川神社大井鹿島神社とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていました。明治時代には、郷社に列格、宇佐神社と称していましたが、終戦後世田谷八幡宮と旧称に戻しています。

新編武蔵風土記稿による世田谷八幡宮の由緒

八幡社
社地3320坪。宇宮の坂と云所にあり、一村の鎮守なり。神主を大場氏と云、社領11石を賜へり。社邊に古木の松杉生繁りて神さびたり。石階八段を登りて僅に平地あり。又八段を登りて経て社殿に至る。階下にそふて木造りの鳥居を建り。
拝殿。
一間に五間二尺。萱ぶきにて南向なり。
本社。
一間半に三間。桧皮ぶきにて南向なり。社殿に云、当社は天喜年中奥州の逆徒を退治の時、従三位源朝臣義家の勧請にして、其後数百の星霜を経て天文年中吉良頼貞の再建ありしなりと。按に此説妄誕にしてもつとも無稽の事なり。天喜4年源頼義命を蒙りて、奥州の安倍の頼時を伐しは、正史にあらはるる所なり。義家がために奥州の武衡家衡をほろぼしは寛治5年の事にして、天喜4年を去こと36年の後の事なれば、是等の事は更に論ずべくもあらず、又文安年中吉良の御所世田ヶ谷に居城ありし時、此宮を氏神と崇敬し、社領をもあまた寄附し、新に宮柱を造営ありしと云々、此説もうけがひがたし。既に当社の棟札に天文15年丙午8月20日新立、12月20日癸卯御遷宮と記す。又当社八幡宮新に建立し奉る、大檀那源朝臣頼貞ともあれば、此時初て造立せしこと著し、然るを社人等いかにも旧社とせん事を思ひて、其事跡をも糾さずかかる付会の事を傳へしなるべし。
末社。
若宮社。天神社。太神社。疱瘡神社。何れも小社にして、本社に向ひ左の方に立。弁天社、本社に向ひて右の方小池の傍にあり。
御所櫻
本社に向て右鳥居の傍にある枯木なり。相傳ふ昔吉良左京太夫頼貞が館にありし櫻木にて、頼貞ことに愛せられ、天文15年8月20日此地に移し植しとなり。想ふに天文よりこのかた二百六七十年に及べり。此木はさせる古木とも思はれず。ことに櫻樹は他の木に比すれは年寿短きをや。(新編武蔵風土記稿より)

世田谷区教育委員会掲示による世田谷八幡宮の由緒

この神社は、源義家が奥州の内乱をとりしずめた記念として建てたとつたえられる。
その後、天正15年(1587)に世田谷城主の吉良頼康が、新しく建てた。
宮坂八幡・宇佐八幡とも呼ばれ、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后をまつる。
社殿は、文化10年(1813)の建築で現在の社屋の中におさめてある。
昔から行われている秋祭の奉納角力は有名である。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による世田谷八幡宮の由緒

祭神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会」には、得ずに世田谷八幡社と註され、文には宮坂八幡宮として、「同じ寺(豪徳寺)より西の方の岡続きにありて、其の三町計を隔つ。鎌倉亀岡八幡宮の模にして、勧請年暦詳ならず、天文十五年吉良頼貞当社を建立すと云。或は義家朝臣勧請せられし御神にして吉良家再興とも云伝ふれども義家勧請と云事疑少からず。祭礼は八月十五日にして、社司大場氏のの奉祀たり。社内に存する嘘は、頼貞親植るところと云伝ふ」
すなわち、約880年前、奥州の清原武衝、家衡らの内乱(後三年の役)を平定した源義家が、戦勝を祝して、この地に勧請し東征の弓矢、旗を当社に納めて後の記念とした。さらに世田谷の地に城を築いた吉良氏が氏神として崇敬し、社殿を修復して術前雲次の大刀(2尺3寸)の白鞘一振を、八幡大神の御佩刀として納めたともいい伝えられているが、これらの棍拠はうすいもので、かつて、この社に蔵してあった棟札に「当社八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文十五年丙午八月二十日釿立.十二月二十日癸卯御遷宮」とあるので、約420年前に、吉良7代の頼康卿によって造立されたものと考えられる。(ここに頼貞というのは、頼康の初の名で同一人である)。
徳川家康が江戸城に入城たのち、天正19年(1591)当八幡社に、社領として11石、田畑にして約3町9反4畝を寄進した。以来徳川代々の将軍は、朱印地として社領11石を寄進するならわしとなった。
維新後の明治5年に郷社宇佐神社となり、旧世田谷村の地および羽根木を氏子区域と定めたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、細社の社格も廃止され、また、宇佐神社の社名も朱印状などの文献によって、元の社名「世田谷八幡宮」と復元、昭和39年5月鉄筋コンクリート建に改築し荘麗な社殿となった。なお文化10年(1813)の建築といわれる本殿は、そのまま現在の本殿の中に納められている。
また秋季大祭(9月15日)の奉納相撲が有名である。(せたがや社寺と史跡より)

境内掲示による世田谷八幡宮の由緒

世田谷八幡宮の御鎮座は、今から約九百数十年前、第73代堀河天王の寛治5年(1091)、当時陸奥国(奥州)の鎮守府将軍として任ぜられた源義家が、幾多の苦を重ねて清原家衡を金沢柵にて攻め平定した後三年の役(1087-1094)の頃です。義家は、戦地からの帰途、この世田谷の里にて豪雨にあい、先に進めず天気快復を待つため十数日間滞在する事となりました。もとより敬神の念を厚く持つ義家は、今度の戦勝は日頃氏神(守神)として信仰する八幡大神様の御加護に依るものと深く感謝し、備前国(大分県)の宇佐八幡宮の御分霊を、この世田谷の地にお招き申上げ盛大なる勧請報斎・奉祝のお祭りを執り行い、里人に対しこの御祭神を郷土の鎮守神として厚く信仰するよう教えた、と云われています。また、そのとき兵士に奉祝相撲を取らせた事でも有名であり、現在でも奉納相撲として伝えられています。
その後の八幡様は当社に残る棟札によると「当社 八幡宮建立大檀那源朝臣頼貞。天文15年丙午8月20日建立、12月20日癸卯御遷宮」とあり、約四百数十年前の第105代後奈良天皇の御世に世田谷城主であった吉良頼貞・頼康が社殿を修築造営し、またこの時、現在でも社宝として残っている備前雲次の太刀(2尺3寸)一振を寄進したと云われています。 このように当社八幡さまは吉良家の祈願所として、神職はその当時の家臣一家老職大場家の一分家たる大場氏により祭典が行われてきましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東征伐にあたり吉良氏は小田原の北条氏と共に滅んでしまいました。
その翌年の天正19年(1591)に江戸城に入城した徳川家康も、源氏の出身であり、その氏神八幡神を崇敬し、当社に社領として11石を寄進しました。以来徳川家代々の将軍は、朱印地として社領11石を寄進する習わしとなりました。
明治維新後の八幡さまは、明治5年に世田谷の総鎮守として郷社宇佐神社となり旧世田谷村の地および羽根木を氏子地域と定めましたが、終戦後、神社は国家管理を離れたので、郷社の社格も廃止され、また、社名も朱印状などの文献により元来の世田谷八幡宮と復元されました。
昭和39年5月に社殿を改築し、現在の荘厳な社殿となり世田谷の鎮守の神様として多くの人達に厚く信仰されています。(境内掲示より)


世田谷八幡宮の周辺図


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