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八條八幡神社。八潮市八條の神社

八條八幡神社の概要

八條八幡神社は、八潮市八條にある八幡神社です。八條八幡神社は、宝徳元年(1449)に山城国(京都)の男山八幡宮から八幡大神を、岩槻久伊豆神社から久伊豆大神を、大宮氷川神社から氷川大神を勧請して創祀したといいます。明治初年に村社に列格、明治40年には幸之宮の久伊豆神社・和之村の第六天神社・中島の稲荷神社・入谷の天神社、明治42年には和之村の浅間神社・入谷の八条神社を合祀、大正元年には中島の厳島神社を合祀したといいます。

八條八幡神社
八條八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命、神功皇后、大己貴命、須佐之男命
相殿 -
境内社 入谷稲荷、弁財天
祭日 -
住所 八潮市八條4069
備考 -



八條八幡神社の由緒

八條八幡神社は、宝徳元年(1449)に山城国(京都)の男山八幡宮から八幡大神を、岩槻久伊豆神社から久伊豆大神を、大宮氷川神社から氷川大神を勧請して創祀したといいます。明治初年に村社に列格、明治40年には幸之宮の久伊豆神社・和之村の第六天神社・中島の稲荷神社・入谷の天神社、明治42年には和之村の浅間神社・入谷の八条神社を合祀、大正元年には中島の厳島神社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による八條八幡神社の由緒

(八條村)
氷川久伊豆八幡合社
村の鎮守とす、満蔵院持なり。
末社。辨天、天神、稲荷。
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八條殿社
塚上に社を建、内に神体とて古碑二基を置、一は弘安七年、一は応安四年五月廿七日宗源禅門と彫れり、是尋常の古碑にて、當社に預りしものにはあらず、一説に月輪太政大臣兼實の三男、八條左大臣義輔罪ありて當國に左遷し、此地にて逝せしかば其霊を祀しと、此説覚束なし。義輔系図には、良輔に作る、當所の地名によりて、此人の事を附会せしならん。又當國七党系図に出たる在名、此邊に多く残られば、村名の條のする處七党系図、八條五郎光平等が家號を附会せしも知べからず、されど塚上を平げし所より、石槨の著し様、古墳なること知らる。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による八條八幡神社の由緒

八幡神社<八潮市八条四〇六九(八条字堤外)>
八条の地は、中世の八条郷に比定される。『吾妻鏡』建暦三年(一二一三)五月十七日条によると、「武蔵国大河戸御厨内八条郷」が式部大夫重清に与えられ、地頭職は渋江光衝に安堵されている。光衝は野与党渋江経光の子息光平とみられ、八条を本貴地として八条五郎光平を称したという。八条氏は当社の南方にある会田家の屋敷の辺りに居館を構えていたとみられ、一五世紀中ごろまで当地とかかわりをもっていたと推測されている。また、当地には八粂上杉氏が居住したと伝えられており、近世の文献には扇谷上杉朝顕は「武蔵国崎玉郡八条の里に住しつれハ、世に八条の上杉と称せしか」(玉石雑誌)、朝顕の孫八条満定は「居城武蔵、葛飾郡八条」(応永武鑑)、満定の甥房繁は馬術八条流の流派を享禄年中(一五二八-三二)に起こした(「上杉系図」続群書類従)とみえる。
当社は、社伝によると、宝徳元年(一四四九)に山城国(京都)の男山八幡宮から八幡大神を、岩槻の久伊豆神社から久伊豆大神を、大宮氷川神社から氷川大神を勧請して併せ祀ったのが始まりである。また、棟札にょれば、承応二年(一六五三)に本殿を再建した。正徳二年(一七一二)の「神位願一件」(会田家文書)によれば、清蔵院と名主組頭らが相談して、一五年かけて宗源宣旨を受けるための御位金を積み立て、正徳二年に伊奈半左衛門代宮所の添状の交付を依頼し、この添状と共に神祇管領吉田家べ願書を提出した。その中に「一、三神之本地ハ八幡之本地ハ弥陀、氷川大明神之本地ハ如意輪観音、久伊豆大明神之本地ハ十一両観音二御座候」「一、御幣ハ正月元朝二三神へ各々壱本ヅ、進上いたし来り申侯、亦九月十五日之祭礼之時、亦如右、三神へ各々壱本宛進シ申候」「一、祭礼ハ年二壱度宛九月十五日いたし来り申侯、備物御幣三神へ各壱本宛井、御神酒進上いたし来り申侯」などの文面がみえ、三神共に丁重に祀っていたごとがわかる。同年十一月二十八日付で三神に対して宗源宣旨が出された。
『風土記稿』八条村の項には「氷川久伊豆八幡合社、村の鎮守とす、清蔵院持なり、末社、弁天、天裡、稲荷」とあり、更に別当の清蔵院は「白幡山と号す、本尊大日を置、此寺もと村民五左衛門が屋敷内にありし庵なりしを、後に一寺となせり」とある。これに見える村民五左衛門は会田家を指す。清蔵院は当社の境内東側の辺りにあった。
当社は明治初年に村社となり、同四十年には幸之宮の久伊豆神社・和之村の第六天神社・中島の稲荷神社・入谷の天神社、同四十二年には和之村の浅間神社・入谷の八条神社が合祀され、更に大正元年には中島の厳島神社が合祀された。入谷の八条神社は八条上杉氏を祀る社で、社家であった新井家は紙本着色八条房繁像(掛幅)を所蔵する。(「埼玉の神社」より)


八條八幡神社所蔵の文化財

  • 弘安七年阿弥陀三尊種子板碑(市指定有形文化財)

弘安七年阿弥陀三尊種子板碑

八條八幡神社は、宝徳元年(一四四九)の勧請といわれ、八幡・久伊豆・氷川の三神の合社である。社殿は、明治二十四年の大型の二間社流れ造りで、柱間には大日本帝国憲法の発布式と、帝国議会の様子を浮き彫りにする。
板碑
当社所蔵の板碑は、八條殿社の神体として祭祀されてきたが、美江寺四十三年八幡神社に八條殿社が合祀されてから当社が管理し現在に至る。板碑は、板石塔婆や青石塔婆と呼ばれ、中世期の死者の追善供養と自分の安楽浄土を願い造立された。石材は、埼玉県の荒川上流部の野上町付近から切り出した緑泥片岩を主に使い、扁平な石材に、上部を三角形に切り、二条線、種子・蓮台、法名、紀年などを刻む。
八潮市域には、このような板碑が一三〇余基も分布し、当社蔵の板碑は八潮市最古の弘安七年(一二八四)の板碑で、高九一糎、幅三三糎、厚二・九糎、八條郷の地頭職の八條氏を供養するために建碑するために建碑されたと推測される。更に近世地誌「新編武蔵風土記」や「先進繍像玉石雑誌」「柳庵随筆」名所図会などで紹介され、江戸町民の参詣も多かったと伝える。(八潮市教育委員会掲示より)


八條八幡神社の周辺図


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