氷川神社。さいたま市大宮区高鼻町の神社

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氷川神社。大宮氷川神社、武蔵国一宮、官幣大社

氷川神社の概要

氷川神社は、さいたま市大宮区高鼻にある神社です。氷川神社は、孝昭天皇3年(紀元前473年)に創建、日本武尊が東征の際には当社に祈願したと伝えられます。成務天皇(130-190)の代に出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり当社を奉崇し、出雲国斐伊川の名より氷川神社と称するようになったといいます。延喜式神名帳には名神大社として書載、中世以降小野神社(論社:多摩市小野神社、府中小野神社)より氷川神社が武蔵国一宮となり、天正19年(1591)には徳川家康より社領100石を安堵する御朱印状を拝領、明治維新で東京が首都となると共に当社が武蔵国鎮守社、勅祭社と定められ、明治4年位は官幣大社に列格したといいます。

氷川神社
氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 須佐之男命、稲田姫命、大己貴命
相殿 -
摂社 門客人神社、天津神社、宗像神社
末社 天満神社、松尾神社、御嶽神社、稲荷神社、山祇神社、石上神社、愛宕神社、雷神社、住吉神社、神明神社
祭日 例大祭8月1日
住所 さいたま市大宮区高鼻町4-407
備考 は名神大社、官幣大社(武蔵国一宮)、別表神社



氷川神社の由緒

氷川神社は、孝昭天皇3年(紀元前473年)に創建、日本武尊が東征の際には当社に祈願したと伝えられます。成務天皇(130-190)の代に出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり当社を奉崇し、出雲国斐伊川の名より氷川神社と称するようになったといいます。延喜式神名帳には名神大社として記載され、中世以降小野神社(論社:多摩市小野神社、府中小野神社)より氷川神社が武蔵国一宮となり、天正19年(1591)には徳川家康より社領100石を安堵する御朱印状を拝領、明治維新で東京が首都となると共に当社が武蔵国鎮守社、勅祭社と定められ、明治4年位は官幣大社に列格したといいます。

境内掲示による氷川神社の由緒

氷川神社は今からおよそ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御宇三年四月末の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬、武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東蝦征伐の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社をもっぱら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉納に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相次いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。
明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。次いで明治四年には官幣大社に列せられました。
昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。(境内掲示より)

さいたま市教育委員会掲示による氷川神社の由緒

□氷川の森歴史散歩コース□氷川神社
大宮の地は”大きなお宮”であるここ氷川神社に由来しています。武蔵一之宮の格式を持ち、平安時代前期に朝廷がまとめた「延喜式」にすでに「大社」であると記されています。
氷川神社は現在のところ関東地方に約250社が祀られており、いずれも2000年ほどの歴史をもつこの氷川神社を御本社として分霊されたものです。スサノオノミコトほか二柱を祭神としており、古代に稲作を司る神として祀られたのが始まりだと思われます。
鎌倉時代以降は源頼朝・徳川家康といった武士に、明治以降は皇室の尊崇が篤く、明治天皇は東京遷都直後に参拝され国の安泰を祈願するなど、古くより為政者から厚く遇されてきました。しかし、最も深く関わり守り育ててきたのは、江戸時代以来”お氷川様”と呼び親しみ、何度となく参拝し手を合わせてきた地域の人々・大宮に住む人達であったに違いありません。初詣にはじまり12月10日の大湯祭(十日市)まで、四季を通じて心を託し得ることのできる身近で大きな存在になっています。
左手は神社本殿を経て表参道・大宮駅へ、右手は大宮公園から盆栽町へ続く街中に残された貴重な緑の中を訪ねるコースです。(さいたま市教育委員会掲示より)


氷川神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)