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猫の足あと

長徳寺。川口市芝にある臨済宗建長寺派寺院

長徳寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の長徳寺は、大智山と号します。長徳寺は、足利基氏の祈願所として貞治3年(1364)に僧秀田(二階堂遠江守の末裔佐々木左衛門佐某が子)によって開基、龍派禅珠が天正10年(1582)に住寺職となり中興、天正19年(1591)には徳川家康より寺領40石の御朱印状(別途八幡社領15石、観音堂領20石)を拝領したといいます。

長徳寺
長徳寺の概要
山号 大智山
院号 -
寺号 長徳寺
本尊 釈迦牟尼佛像
住所 川口市芝6303
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



長徳寺の縁起

長徳寺は、足利基氏の祈願所として貞治3年(1364)に僧秀田(二階堂遠江守の末裔佐々木左衛門佐某が子)によって開基、龍派禅珠が天正10年(1582)に住寺職となり中興、天正19年(1591)には徳川家康より寺領40石の御朱印状(別途八幡社領15石、観音堂領20石)を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による長徳寺の縁起

(芝村)長徳寺
臨済宗、鎌倉建長寺末、大智山と號す、天正十九年寺領四十石、及び八幡社領十五石、観音堂領二十石都で七十五石を賜へり、寺傳に云、當寺は僧秀田と云しものの草創にして、此僧の師古先印元禅師を請て、開山とし、己は第二世に居れり、印元禅師は應安七年正月二十四日示寂せり、秀田は二階堂遠江守の苗裔佐々木左衛門佐某が子にして、應永十四年六月十六日寂せりと云、按に近村文蔵村の民茂左衛門が蔵する、天正年中太田十郎氏房の文書に文蔵二階堂百姓中とあり、又駒場村蓮昌寺は、二階堂右衛門督資朝の開基なり、其寺傳に資朝は小田原没落の後、舊領なる故文蔵寺に住せりと云、是等に據に、古より二階堂氏此邊を領せしかば、其一族佐々木某が子僧となり、當山を開きしと云も據ありとすべし、中興開山龍派は號を寒松と云、下野國足利鑁阿寺を兼帶して、しばしば彼寺に往来せり、此龍派は東照宮及び台徳院殿御歸依ある僧にて、時々御前に召て書籍の校合、或は講書などきこしめさる、又大猷院殿の後世となりても、此邊御遊覧の時などは、當寺へ成せたまひしことしばしばなり、或は占卜などを御前にて考へしこともありしと云。
寺寶。寒松日記一箱、慶長・元和・寛永の間當寺にあづかることを記せり、龍派和尚自筆の筆なり。同詩文集八巻。
本堂。本尊地蔵を安ず。
仁王門、中門、惣門。
鐘楼。鐘は元和元年中の鋳造なりしを、寶暦十四年再鑄す、初は元和八年壬戌九月十七日熊澤三郎左衛門・藤原忠勝造りしなり。
八幡社。境内にあり、社領十五石は大猷院殿の御寄附なり、寺記に據ば安房國鶴谷と云所に、勧請せし八幡を爰に移せり、熊澤三郎左衛門の建立なりと云、鶴丸八幡と稱せり、本社の傍に神宮寺と云る小院を置守らしむ、是は龍派和尚の草創なりと云。
東照宮、辨天社、天神社、稲荷社、金峯権現社。
観音堂。堂領二十石は、是も大猷院殿の御寄附なり。
閻魔堂。
寺中。
成就院。秀田の開きし所と云。
壽量院。
頓證軒。
桂陰庵。
福壽庵。以上四院は龍派の建立といふ。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による長徳寺の縁起

芝の独立丘陵に位置する長徳寺は、鎌倉建長寺末寺の臨済宗幻住派に属し、山号を大智山という。寺伝によると創建は南北朝時代の貞治3年(1364)、足利基氏の祈願所として僧秀田によって開基されたと伝えられている。
天正10年(1582)に住寺職となったのが本寺中興の祖、龍派禅珠である。この時、寺は栄え絢爛たる文化が花開く。また、天正18年には徳川家康により寺領40石を安堵され、以後長徳寺は将軍家代々の保護を受け、建長寺派の四大柱の一寺寺院として栄えるのである。本寺は慶長年間に2度の火災にあっており、この再建を助けたのが、当時芝村の代官であった熊沢忠勝であった。(境内掲示より)


長徳寺所蔵の文化財

  • 龍派禅珠・中峰明本頂相(埼玉県指定有形文化財)
  • 寒松日記・寒松稿(埼玉県指定有形文化財)
  • 長徳寺の獅子頭および神楽面(川口市指定有形文化財)
  • 圓通殿観音堂三十六歌仙絵扁額(川口市指定有形文化財)
  • 長徳寺のビャクシン(川口市指定天然記念物)

龍派禅珠・中峰明本頂相

仏教の一派である禅宗では、始祖・高僧といわれる僧侶の肖像画を描く習慣がある。この肖像画を頂相といい、頂相に描かれた僧侶は自ら筆をとり、自賛の詩を書き入れて修行を積んだ弟子達に印可の証として授けた。
長徳寺には龍派禅珠と中峰明本の頂相があり、龍派禅珠の頂相は彼が逝去する年の春、本寺の後住禅復首座に与えたものである。この頂相には88歳の枯れた自賛の書が七言絶句で書かれている。
中峰明本は、中国銭塘の禅僧で、姓は孫氏、南宋の景定4年(1263)に生まれ、元の至治3年(1323)61歳で没している。書に優れた才能を持ち、その墨跡は我が国では「笹の葉書き」、中国では「柳葉の体」と呼んだ。この頂相は、鎌倉建長寺住職・本寺第11世古先印元が伝えたものと言われている。(境内掲示より)

寒松日記・寒松稿

龍派禅珠(号寒松)は幼少の頃から円覚寺の奇文和尚について詩文を習い、早くから格調の高い文章をものにして、学僧としての才能を発揮していた。
『寒松日記』は、慶長18年(1613)から寛永9年(1632)までのものであるが、元和9年(1632)のものを除き、完全なものはない。しかし、この日記のうち元和9年10月の頃を見ると、キリシタン救助の記録をはじめ、日記全体に江戸時代初頭の重要な事件が記されており、史料的価値は非常に高い。また、龍珠が交渉のあった有名人も記されており、禅珠の交際の広さをうかがうことができる。
『寒松稿』は、慶長3年(1601)稿三を起稿してから寛永10年(1633)3月の稿十一を脱稿するまでの32年間の、将軍から百姓に至るまでの広い層にわたる禅珠の交渉を詩文に綴ったものである。この『寒松稿』は、鎌倉時代京都五山に始まった、いわゆる五山文学の最後の傑作といわれ、その内容は、禅宗の法語類をはじめ、文学に属する詩歌・論文・紀行・随想など多種多様なものを含んでいる。(境内掲示より)

長徳寺の獅子頭および神楽面

本寺には獅子頭3頭と神楽面10面が保存されている。そのうち獅子頭2頭の裏面には年号が墨書されており、これによると元禄11年(1698)以前に製作されたものであることがわかる。
芝における獅子舞は、代官熊沢忠勝が房州(千葉県南部)の鶴ヶ谷八幡を遷宮し、鶴ヶ丸八幡神社を建立したのを機に、毎年8月15日に御子舞・獅子舞が奉納されていたことが本寺所有文書に明らかであり、この時使用された獅子舞が現存の2頭である。また、嘉永8年(1852)8月、峰町農民と八幡宿農民が交わした「差上申済証文之事」により、本寺門前の人々と鶴ヶ丸門前の人々が獅子舞を行なっていたことがわかる。(境内掲示より)

長徳寺の周辺図