養壽院。川越市元町にある曹洞宗寺院

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養壽院。河越太郎重頼の曾孫遠江守経重が大旦那

養壽院の概要

曹洞宗寺院の養壽院は、青龍山と号します。養壽院は、河越太郎重頼の曾孫遠江守経重が大旦那となり、大阿闍梨阿圓慶法師が寛元元年(1243)創建、隆専上人が天文4年(1535)扇叟守慶和尚(永禄4年1561年寂)を招いて宗旨を曹洞宗に改めたといいます。天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院です。

養壽院
養壽院の概要
山号 青龍山
院号 養壽院
寺号 -
住所 川越市元町2-11-1
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼佛像
葬儀・墓地 -
備考 -



養壽院の縁起

養壽院は、河越太郎重頼の曾孫遠江守経重が大旦那となり、大阿闍梨阿圓慶法師が寛元元年(1243)創建、隆専上人が天文4年(1535)扇叟守慶和尚(永禄4年1561年寂)を招いて宗旨を曹洞宗に改めたといいます。第3世存舜の代の天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、近郷に数多くの末寺を擁していた中本寺格の寺院です。

新編武蔵風土記稿による養壽院の縁起

(養壽院門前町)養壽院
青龍山と號す、寺傳云寛元中河越遠江守経重開基す當時は密院にて昔圓慶と云僧住職せしかば、天文年中時の住職隆専、曹洞宗大源派の僧扇叟が徳を慕ひ、其身住持職を退きて扇叟に譲りし故、今扇叟を開山とすと。然るに今本堂に掛る鐘銘をみれば、是圓慶が勧請によりて、遠江守経重大旦那として造りし山を彫る、因てをもふに此鐘ある故に、今経重が開基なりと云説を唱ふるが、抑此鐘が日吉山王社前のものなることは、下に出せる銘文にも歴々たり、又もとの河越上戸村日吉社別當修験、大廣院の縁起によるに、阿闍梨圓慶は大廣院の歴代の内にて、平経重は彼院の大旦那なり、況日吉山王の文あるときは、此鐘上戸大廣院のものなること論なし、おもふに天文中の住持隆専と云もの、大廣院の支子などにて當院を開きしを、後洞家に歸依して扇叟に住職を譲りしか、されば其實は隆専を開山とし、扇叟を中興法流の祖とも云べきか、扇叟は永禄四年三月十五日示寂せり、今相模國高座郡遠藤村寳仙寺の末山となれり、本尊寳冠の釋迦を安ず、又開基経重が寄進せし鐘を本堂にかく、疑文に銘をしるす、
武蔵國河肥庄
新日吉山王宮
奉鑄推鐘一口長三尺五寸
大檀那平朝臣経重
大勧進阿闍梨圓慶
文慶元年大蔵庚申十一月廿二日
鑄師舟治久支
大江真重
或云この鐘は喜多院の鐘ならん、曹洞宗にては日吉に縁なし、亂世の際仙波より取来りて當寺へかかげしならんと、又云この新日吉山王は、今の上戸村の山王社なるべしといへど、別に此邊にこの社ありしやさだかならず、されど上戸村大廣院と云修験者の先祖に、阿闍梨圓慶と云名ありと云ときは、上戸村の山王なるにや、御打入の頃は扇叟より三世の住僧存舜が時なり、その頃賜はりし御朱印の文左にのす
寄進 養壽院
武蔵國入間郡河越之内
拾石事
右令寄附訖、殊寺中可爲不入者也、仍如件、
天正十九年辛卯十一月日
存舜は深く東照宮の尊慮にかなひければ、御遊歴のたびごとにしばしば渡らせ給ひしとなり、或は當寺へ御止宿ありしこともあり、又境内のさかひも、御遊歴のとき持たせたまひし御杖のさきにて、限りを示したまひしかば、其所に葉おひたる切竹をたてて、標しけるなどとかたり傳へり、其後境内の地杉原町の方へ出し所へ、城主より馬埒をつくらんとてその地を収め、代の地として高澤町の内にて、そこばくの所をあたへたり、これ寛永年中の事なりとぞ、かかる御由緒あれば、松平伊豆守以来代々城主より住僧へ、書簡をあたふるを例となすとぞ。
禅堂。
白山社。
山王社。此社に三十六歌仙の額をかく、その額の書は本阿彌光悦の筆にて、畫は土佐家の畫きし所なり、今は別當寺のもとに収めおくと云。
妙見社。
毘沙門辨天大黒社。
塔頭
千壽院。稲荷山と號す、境内に稲荷社ある故にかく號すと云。
長徳院。今廢寺となる。
千慶院。同上。(新編武蔵風土記稿より)


養壽院所蔵の文化財

  • 銅鐘(国指定重要文化財)
  • 岩田彦助の墓(市指定文化財)

養壽院の周辺図


参考資料