中院。川越市小仙波町にある天台宗寺院

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中院。天台宗別格本山

中院の概要

天台宗寺院の中院は、星野山と号します。中天長7年(830)慈覚大師により無量寿寺として創建しました。永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、北院(現喜多院)・中院・南院となる各房が建てられました。当院は、寛永10年(1633)仙波東照宮建造の際に当地へ移転しています。現在は、天台宗関東八檀林の一つとして、天台宗別格本山特別寺の称号をもちます。

中院
中院の概要
山号 星野山
院号 中院
寺号 -
住所 川越市小仙波町5-15-1
宗派 天台宗
本尊 阿弥陀如来
縁日 1月3日初大師だるま市
葬儀・墓地 -
備考 天台宗別格本山、天台宗関東八檀林



中院の縁起

中院は、天長7年(830)慈覚大師により無量寿寺として創建しました。永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して当寺を再興し、北院(現喜多院)・中院・南院となる各房が建てられました。寛永10年(1633)仙波東照宮建造の際に当地へ移転しています。

埼玉県掲示による中院の縁起

中院は、かつて星野山無料寿寺仏地院と称し、天長7年(830)に慈覚大師によって創立された。当初の中院は、喜多院の隣にある仙波東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)仙波東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著した太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。
また、加藤みきは、文久3年(1863)に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母に伴われて上京し、以後大正12年に再び川越に戻り、昭和10年5月に73歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓碑は藤村が書いたものである。(埼玉県掲示より)

川越市教育委員会掲示による中院の縁起

中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院(現喜多院)・中院・南院の三院があり、それぞれに仏蔵院・仏地院・多聞院と称していたものである。
当初の中院は、現在の仙波東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)仙波東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。
喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)勅願所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。(川越市教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による中院の縁起

(小仙波村東照宮別當喜多院寺中)中院
天台宗。八ヶ檀林の一なり、山寺號及び開山中興等都て喜多院に同じ、喜多院と南院の中央にあればかく號す。當院古は今の御宮の建る邊にありて、三院鼎足の如くなりと雖、草創より永禄の頃まで、當院殊に盛なりしと云、其後喜多院繁榮せしより、中南二院漸衰へ、喜多院御神領の内三十石を配當する事となりて、全く寺中の如くなれり、されど自餘の寺とは自ら異にして、住僧色衣を着し、又東叡山にては檀林の寺格を以て扱ふと云、本堂十三間に七間半、本尊三尊、彌陀を安ず、傍に大日及び不動を安ず、惠心僧都筆の二十五聖畫を寺寶とし、又古文書をも蔵せり。
鐘楼門。元禄三年鋳造の鐘をかく。
釈迦堂。延宝年中より此堂にて常念佛あり。(新編武蔵風土記稿より)


中院の周辺図