林稲荷神社|練馬区豊玉北の神社

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林稲荷神社|白狐と稲荷大明神に感謝して寛文年間に創建

林稲荷神社の概要

林稲荷神社は、練馬区豊玉北にある稲荷神社です。林稲荷神社は、寛文年間(1661-73)の創建と伝えられています。当時は将軍家の直轄地で御林と呼ばれていましたが、干ばつの際に御林の木を伐採するものが続出し困っていたところ、夢のお告げで湧き水の場所を知らされ、生活が安定したことから、白狐と稲荷大明神に感謝して創建されたと云います。

林稲荷神社
林稲荷神社の概要
社号 林稲荷神社
祭神 宇気母知命
境内社 -
相殿 -
住所 練馬区豊玉北1-7
備考 林稲荷神社の庚申塔、市杵島神社の境外社



林稲荷神社の由緒

林稲荷神社は、寛文年間(1661-73)の創建と伝えられています。当時は将軍家の直轄地で御林と呼ばれていましたが、干ばつの際に御林の木を伐採するものが続出し困っていたところ、夢のお告げで湧き水の場所を知らされ、生活が安定したことから、白狐と稲荷大明神に感謝して創建されたと云います。

練馬区教育委員会掲示による林稲荷神社の由緒

本社の創建は「縁起」によると、「この地は江戸時代から将軍家の直轄地であり、御林と呼ばれる地であった。ある年、干ばつが続いて、村人が御林の樹木を売って生活の資としてしまった。その管理をしていた百姓仁左衛門が困っていたところ夢枕に祭神が現れ、湧き水の場所を知らせた。村人7人で掘ったところ清水が湧き出て生活が安定した。そこで当社を創建したという。創建は寛文年間(1661-73)の頃と考えられる」とある。昭和14年、区画整理により社地を拡げ、石段などを整備。現在の社殿、鳥居などは平成11年に改築されたものである。(練馬区教育委員会掲示より)

林稲荷神社世話人会掲示による林稲荷神社の由緒

このお社は林稲荷神社とよばれています。このあたりは江戸から明治時代にかけて中荒井村北於林と云われていました。「於林」とは「御林」すなわち、江戸時代幕府要人が鷹狩や狩猟のために使用した林のことです。これが林稲荷神社の由来です。江古田川(旧中荒井川)の南の中野区江古田3丁目にあった旧国立中野療養所の所も御林野であり、その東側にある東福寺には、将軍や御三卿(清水、一橋、田安家)の殿様が狩に来たときに休息所とした御膳所がありました。
神社の創建について、昭和15年に旧中荒井1丁目町会(現在の豊玉第1町会)の方が著した林稲荷神社縁起には、およそ次のように記されております。
「ある年干ばつがあり、農作物が収穫できなくなったため、少なからぬ村民たちが食料を買うためのお金を得ようと、お林の木を伐って売り始めました。これを見て困ったのは、お上からこの林の管理を任せられていた村人仁左衛門です。同じ村人のやることであるし、木を伐って売らねばならない事情も理解できるからです。すっかり困り果てて悩んでいたところ、ある晩、夢枕に稲荷大明神(宇気母知命)が二匹の白狐をつれて現れ、「この干ばつに苦しむのはこの地に良い水源が無いことである。この丘の崖下を浚い、数町北にある窪地を掘れば水が沢山得られるであろう」と告げられ、汗をびっしょりかいて夢から覚めました。これは不思議なことと思い、朝になってお林の中を探し回ったら、狐の棲家と思われる穴がみつかり、その部分だけ少し開いた穴の前の土地は、掃き清められたように平で、そこには2、3匹の狐の足跡がありました。あれは正夢であったか、と驚いて、このことを百姓頭三郎左衛門に話し、村民7名と共に神のお告げのあった場所に井戸を掘りました。すると清水がこんこんと湧き出し、田畑が潤って農作物の収穫が得られるようになり、木を伐る必要がなくなりました。村民たちが稲荷大明神に感謝の気持ちをこめて創建したのがこの社の起源であります。」
このことがあったのは、寛文年間(1661-73)の頃であったと言い伝えられていたそうですが、仁左衛門家が、その本家の平左衛門家から分家したのは、これより時代が下がるので、この出来事は寛文より少し後のことと考えられます。
林稲荷神社と村民とを深く結び付ける関係は、その後再び明治の世になって現れます。江戸幕府が大政奉還して瓦解し、お林が時の政府から林稲荷神社のある所を含めて、名主の岩堀伝内に払い下げられ、社殿が壊されることになりました。人々が社の無くなることを憂いていたところ、子孫の矢島三郎左衛門や矢島仁左衛門は、屋敷の周りで、悲しげに鳴く狐の声を耳にします。それを聞いて二人は、これは稲荷社の保存を狐が訴えているのだ、と思いました。そこで、昔干ばつの時、稲荷大明神のお告げで助けられたことを思い出して、村民たちと相談し、二人を含め25人の者が境内社地を買い戻し、社も新しく造り替えてお祀りすることにしました。時に明治12年のことであります。
以来、明治、大正、昭和と、林稲荷神社は旧中荒井村住民を中心に維持管理されてきました。しかし、土地の区画整理(昭和10-15)があって住民の家々と社が、交通量の多い目白通り(十三間道路)で分断されてしまったことや、第二次世界大戦(昭和16-20)とその後の混乱期などのあおりを受けて、古くから社と縁のあった一部の子孫がこの地を離れてしまったことなどのため、林稲荷神社はだんだんと人々から忘れ去られてしまいました。社殿や鳥居などは朽ち果て、境内も荒れ果てたままの状態がずっと続いておりました。
最近になって、旧中荒井村東部地区(現在の豊玉上1丁目、豊玉北1、2丁目)の住民の人達は、稲荷社の土地の歴史に根付いた由緒を知り、ここに林稲荷神社復興世話人を組織して、この度、59年ぶりに境内を整備し、鳥居や社殿、庚申堂、水屋、狐塚などを新たに造り、社を末永くお祀りしていくことになりました。(林稲荷神社世話人会掲示より)

境内掲示による林稲荷神社の由緒

「縁起」(昭和一五年、中新井町一丁目町会)によると、当社の在る所は江戸初期から将軍家の直轄地で、御林(オハヤシ)と呼ばれていた。ある年の夏、ひどい干魅が続き、住民は生活に困窮の末、ついに御林の樹木を濫伐、売って生活の資とするようになった。管理の任に当たっていた百姓仁左衛門もその制裁には躊躇し苦しんだ。すると夢枕に稲荷の祭神が現われ、湧き水の出場所を教えて消えた。夢から覚めた仁左衛門は早朝、居住者七人を集めて台地の穴を掘ると果して清水が湧き出た。これより潅漑用水の不足はなく生活は安定した。そこで神社を創建、御林稲荷と称した。この年代は寛文(一六六一~七三)の頃と思われる、と次第が述べられている。
明治になって御林は払下げを受けて私有地となり、更に売却された。仁左衛門の後裔矢島軍次郎らは、社地を失うことを憂えて二十余名が土地四十余坪を買い増す資金を拠出、所有者代表を矢島三郎左衛門と決めた。現社地は六七坪余。豊玉第一町会(旧中新井町一丁目町会)が管理している。境内の水盤と狛犬は昭和一五年(一九四〇)に造立されたもの。昭和三〇年(一九五五)からは市杵島神社の飛び地境内社となっている。
平成七年から町会による神社整備の動きがあり、伸びすぎた周囲の樹木を伐採、平成八年(一九九六)四月、神社復元実行委員会設置が町会で決まり平成一一年(一九九九)、社殿、鳥居、水屋などを改築し、境内が整備された。(練馬区教育委員会掲示より)


林稲荷神社所蔵の文化財

  • 林稲荷神社の庚申塔(練馬区登録文化財)
鳥居脇の祠に納まる中央の角柱型石造物は、寛文3年(1663)に建てられた庚申塔です。三猿や鶏の浮き彫りは精巧に表現されています。区内では古いもので、江戸初期の庚申塔の典型を示しています。(練馬区教育委員会掲示より)

林稲荷神社の周辺図

参考資料

  • 「練馬の神社」(練馬区教育委員会)