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宝仙寺|中野区中央にある真言宗豊山派寺院

宝仙寺の概要

真言宗豊山派寺院の宝仙寺は、明王山聖無動院と号します。宝仙寺は、寛治年間(1087~94)源義家によって創建されたと伝えられ、江戸時代には数多くの末寺を擁した中本寺格の寺院でした。境内には(株)丸井元会長の青井忠治氏により建立寄贈された宝仙寺大師堂があり、赤塚不二男さんなど著名人の大型葬に利用されています。御府内八十八ヶ所霊場12番札所、関東三十六不動15番不動です。

宝仙寺
宝仙寺の概要
山号 明王山
院号 聖無動院
寺号 宝仙寺
住所 中野区中央2-33-3
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 宝仙寺大師堂で葬儀可能
備考 教育事業:宝仙学園、御府内八十八ヶ所霊場12番札所、関東三十六不動15番不動



宝仙寺の縁起

宝仙寺は、寛治年間(1087~94)、大宮八幡神社の別当寺として、源義家が創建したと伝えられています。天正19年(1591)寺領15石の御朱印を拝領、慶安元年には23石6斗へ加増されています。江戸時代には末寺32ヶ寺、門徒26ヶ寺を擁した中本寺格の寺院でした。

境内掲示による宝仙寺の縁起

武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起によると、宝仙寺は、平安後期の寛治年間、源義家によって創建されました。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の途中にあり、陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。
その地は、父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地で、この造寺竣成の時、地主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え
「この珠は希世之珍 宝中之仙である。是を以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明かならん」
と言いおわるや、白狐となって去りました。
これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による宝仙寺の縁起

境内1萬5052坪。往還の内小名中宿下宿の境にあり。明王山聖不動院と号す。新義真言宗、無本寺にて天正19年御朱印15石を賜ひ、慶安元年8月17日8石6斗余を増して、都合23石6斗余の寺領となれり。
傳へ云、昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしかば凱陣の後、当寺を建立し給ふと云。されど往古の事なれば其詳なる事をしらず、当寺昔は、和田村八幡(大宮八幡神社)の別当なりしが、社地への路程へだたりて不便なれば、末寺にその職をゆづれりと云。されば八幡鎮座の時、当寺を起立して別当に附られしにや、中興開山を聖永といふ。永享3年2月24日示寂す。末寺32ヶ寺、門徒26ヶ寺を統べ司どれり。(中略)
本堂。
宝形作りにて、10間に9間南向、御座所2間に2間半。御成の時御膳所なり。本尊は不動の坐像にて、長1尺7寸5分。良弁の作。外に四大明王の四体を安す。木の立像にて長2尺3寸5分。願行の作と云。古位牌1基あり。碑面に云将軍頼義公信・信海将軍義家公信了と彫りてあり。
御成門。
本堂より西南の方にあり。9尺四方。鐘のわたり、2尺7寸。高5尺。牧野備後守の寄附なり。(中略)
阿弥陀堂。
本堂の西の方にあり、4間に3間東向、弥陀の本尊は坐像、長1尺5寸。(中略)
観音堂。
境内西南の方にあり。6間に3間の堂なり。東向、本尊如意輪観音木の坐像にて長1尺1寸。(新編武蔵風土記稿より)


宝仙寺所蔵の文化財

宝仙寺の石臼塚

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。(中野区商店街連合会・中野法人会)

宝仙寺の周辺図


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