普門院|鐘ヶ淵由来の伝承、亀戸七福神の毘沙門天、真言宗智山派の寺院
普門院の概要
真言宗智山派の普門院は、福聚山善應寺と号し、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転しました。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財がある他、亀戸七福神のひとつ毘沙門天としても親しまれています。
| 山号 | 福聚山 |
|---|---|
| 院号 | 普門院 |
| 寺号 | 善應寺 |
| 住所 | 江東区亀戸3-43-3 |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 葬儀・墓地 | - |
| 備考 | 亀戸七福神の毘沙門天 |
普門院の縁起
普門院は、福聚山善應寺と号し、1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転しました。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。慶安2年(1649)には5石の朱印状を拝領した御朱印寺で、末寺数ヶ寺を擁する小本寺格の寺院でした。
江東区教育委員会掲示による普門院の縁起
普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。
新編武蔵風土記稿による普門院の縁起
普門院
新義真言宗青戸村宝持院末、福聚山善應寺と号す。
慶安2年8月24日大猷院殿当院ヘ御立寄アリテ即日寺領5石ノ御朱印ヲ賜ハリツヒテ御小休ノ御殿ヲ建サセラレシカ其後絶テ御渡モアラス御殿モツヒニ取払ハセラレシナリ。宝暦3年10月29日惇信院殿此渡御遊猟ノツヒテ成ラセタマヒシヨリ再ヒ御膳所ニ定メラレテ御成門ヲ建置リ。
本尊大日。開山長賢大永7年4月2日寂す。開基は千葉中務大輔自胤にて古は豊島郡橋場村にありしを、元和2年今の処に移さる。慶安2年8月24日大猷院殿当院へ御立寄ありて即日寺領5石の御朱印を賜はり、つひて御小林の御門を建させられしか、其後絶て御渡もあらず、御殿もつひに取払はせられしなり。
観音堂。今は大破に及びて再建ならざれば、観音は仮に本堂に置り。縁起に云当寺安置の聖観音は伝教大師の作にて、昔は下総国足立庄隅田川の邊にありしが、大永2年千葉中務大輔自胤の臣佐田善次郎盛光と云もの、讒者のために冤罪を蒙り、既に死刑に行れんとせしとき、盛光兼て信ずる処なればかの観音に祈誓せしに、不思議や奇瑞の奇特ありて助命に逢しかば、夫より身代の観音と唱ふ。斯て盛光剃髪して観慧と号し、弥信心浅からず。自胤も深く是を感じて乃城内に一宇を建て、普門院と号し、彼の観音の安置すと云々。是に拠れば初は寺の本尊となせしと見ゆ。其後別に堂を建たる年代等は詳ならず。
青龍権現社。
鐘楼、享保20年再鋳の鐘にて、銘に寺草創の大略を記す。相傳ふ古鐘は元和2年、旧地より当所へ移りし時、船に載て隅田川を渡さんとて、中流にて誤り落せり。よりて取揚んとせしかど、いかなるゆへにや終に果さず、是今の鐘か淵是なりと。されど彼鐘か淵の事は一説に橋場長昌寺の鐘なりといへば、何れを正しとせんか姑く傳のままを記せり。
慈眼水、来由詳ならず。清冷の井なり。(新編武蔵風土記稿より)
普門院のもと末寺
普門院所蔵の江東区登録文化財
- 石造五輪塔寛永2年在銘(江東区登録文化財)
- 石造宝篋印塔天明8年在銘(江東区登録文化財)
- 古筆了意翁之碑(江東区登録文化財)
- 松本魯山歌碑(江東区登録文化財)
- 徳本講碑明治9年在銘(江東区登録文化財)
- 燈籠(残欠)応永28年在銘(江東区登録文化財)
- 横綱秀ノ山雷五郎墓(江東区登録文化財)
- 勝田家墓地(江東区登録文化財)
- 伊藤左千夫墓(江東区登録文化財)
- 庚申塔寛文8年在銘(江東区登録文化財)
- 地蔵供養塔寛文3年在銘(江東区登録文化財)
- 地蔵逆修供養塔寛文3年在銘(江東区登録文化財)
- 弘法大師供養塔木食観正書(江東区登録文化財)
- 普門院札所碑日本橋藤木店喜八奉納(江東区登録文化財)
- 水盤元文4年在銘(江東区登録文化財)
普門院の周辺図
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普門院伊藤左千夫の墓
普門院本堂
普門院毘沙門堂
普門院六地蔵
普門院大島伯鶴歌碑