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浄光寺|葛飾区東四つ木にある天台宗寺院、木下川薬師

浄光寺の概要

天台宗寺院の浄光寺は、青龍山薬王院と号します。浄光寺は、849年に創建したという古刹で、伝教大師作の薬師如来像を本尊とし、もと天台宗浅草寺末派筆頭でした。古くから木下川薬師(きねがわやくし)として知られているほか、徳川家の祈祷所・御膳所として庇護され、江戸名所として賑わいました。境内には徳川家光の御手植えの松や、日本大学の創設者山田顕義と、加藤ひな子の親交を伝える碑があります。南葛八十八ヶ所霊場38番札所です。

浄光寺
浄光寺の概要
山号 青龍山
院号 薬王院
寺号 浄光寺
住所 葛飾区東四つ木1-5-9
本尊 薬師如来像
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 南葛八十八ヶ所霊場38番札所



浄光寺の縁起

浄光寺は、嘉祥2年(849)僧広智の築いた薬師堂を起源とします。浄光寺は、当初伝教大師作の薬師如来像を安置する薬師堂を守る別当寺として創建、江戸時代には薬師堂領として5石の朱印状を拝領した他、将軍鷹狩りの際の御膳所となっていました。

葛飾区寺院調査報告による浄光寺の縁起

嘉祥2年(849)僧広智の草庵にはじまり、貞観2年(860)3月その弟子慶寛によって一寺となり、浄光寺と名づけられた。古くから<木下川薬師>として知られ、一千有余年の法灯を伝える関東屈指の古刹である。草創の由来については、嘉歴2年(1327)の青竜山薬師仏像縁記」に明らかである。大正8年荒川放水路開削工事による移転以前は、現在地の西北0.6キロ、江戸川水道橋の少し上流にあった。
草創以来、赫々として郷民の崇敬を集めたが、乱世にいたりいくたびか兵火のため焼失、寺領を没収せられ、応永年間(1394-1428)再び戦禍にかかり、荒廃状態となった。時の別当証円は法脈の絶えるのをうれい、領主奥津家定に願い出て、その斡旋によって関東管領上杉憲実から、当寺の別当職および寺領等の補佐を得て中興した。その後も幾多の消長を経、天正19年(1590)住僧良寛は徳川家に愁訴し、薬師供養料として5石の朱印地を得、堂舎を改築し、将軍家の祈願所となり、また江戸時代を通じて、毎年、将軍家の代参があり、江戸城紅葉山の歴代将軍霊屋の別当職を勤め、浅草浅草寺の筆頭格を占め、享保5年(1720)3月、将軍吉宗の放鷹以来、御膳所に指定されて慣例となり、幕末まで継続した。天保11年(1840)火災により本堂以下ことごとく灰燼に帰したが、幸に本尊をはじめ寺宝の大部分はその難を免れか、今なお保存されている。
幕府の崩潰とともに寺運も傾き衰微したが、明治中期以来復興し、境内地3000余坪の広大な地域に、本堂・薬師堂・東照宮・熊野権現・大講堂・仁王門・鐘楼・客殿等を擁し、参道には古松の並木がそびえ、盛観を呈し、境内にはカキツバタの名所として、文人墨客の杖を引くものが多かった。勝海舟もしばしば当寺を訪づれ、明治12年西郷隆盛留魂碑を建て、当寺に書を寄せている。(留魂碑は大正2年、大田区南千束の千束池畔に移された)。また境内の<登美の松>は将軍吉宗の手植の三代目であるが、根元に海舟筆の記念碑がある。その他、境内には、加藤ひな子の事蹟碑、墓域には、幕臣松下専助歴代の墓等がある。毎年4月8日の縁日には、境内に植木市が開かれ、遠近からの参詣人でにぎわう。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)

新編武蔵風土記稿による浄光寺の縁起

薬師堂
6間に5間半、願王堂の三字を扁す。縁起の略云、此像は伝教大師、叡山にて彫刻し霊夢に因て下野国大覚寺の僧廣智に附属し、かの僧当国に持来て唱翁と云行者に出あひ、即彼行者が住せし此地の草庵に安す。其後慈覚大師東国行化の時草庵を一寺となし、弟子慶覚を住職として帰国せし後、貞観2年3月堂宇ことごとく成就し代梵刹となり、云々。是古縁起に載る所なり。其全文は下に出せり。又新縁起に云。応永の頃兵火の為に焼亡せられ田園も掠め奪れ僅に草庵の如くなりしを、時の別当證円領主奥津家定に請て、再ひ薬師堂領寄附せられて中興す。其寄附状今に蔵せり。文に
下総国葛西庄上木毛河郷内、薬師堂別当職、同寺領等事、家定知行内之間進置候上者、曾不可有異爰相違之議、何様御屋形御判送可令申沙汰候、於御祈祷等は不可有懈怠候也、仍寄進申状如件
応永卅三年正月十一日 藤原家定花押
相承院
此相承院と云は、相模国鎌倉鶴岡八幡宮の十二坊にて、其頃当寺を兼帯せしと云、現に今彼相承院に傳ふる文書の内に、管領上杉安房守憲実が相承院を当薬師の別当職に補任せし状あり。其文に
補任
下総国葛西御厨上木毛河郷内薬師堂、号浄光寺、別当職并寺領事
右任奥津右衛門五郎家定申請之旨、補任之状如件、
応永卅三年六月十三日 安房守 花押
相承院法印御坊
其後東国兵乱の頃やや衰廃せしに、天正19年神祖此邊御放鷹の時当寺へ渡らせられ、薬師堂料5石の御朱印を御寄附ありて堂舎を再造なし賜ひ、永く御祈願所に命ぜられ、今も此邊御遊猟の御膳所に定めらると云。此余縁起に北条氏康が武蔵野紀行に載る所の今井の浄興寺を当所の事とすれど、全く付会の説なるをもてここに取らず。
別当浄光寺
天台宗江戸浅草寺末、青龍山薬王院と号す。起立の事は前に立つ。薬師の縁起に見えたり。
寺宝
東照宮御書像一幅。(中略)
大猷院殿御筆一幅。(中略)
古縁起一巻。(中略)
白髭社(註:東墨田白鬚神社
太神宮山王を相殿とす。当村及び下木下川村の鎮守なり。白髭は前に云唱翁を祀り、白髪老翁の像及び慈覚大師の作なり。不動を本地佛とす。太神宮に雨実童子の像、本地佛恵心作の弥陀、山王の神体は丸石なり。縁起に云、此山王の本地垂跡の像とも兵乱の時失せしより、天正5年の夏良完と云僧、法を修して其像を需めしに、6月8日の夜夢の告ありて枕の邊に此石降れり。よって神体とせし事をのす。
弁天社。護伽藍神の宮と号す。是も縁起に拠に慈覚大師雲中に現したる青龍を尋て当所に来りしより、山号とせしかは、後年かの龍を祀り其後傳教大師作れる土形の弁天を安すと云。
天神社、稲荷社二、弁天社、観音堂、仁王門。
鐘楼、享保9年鋳造の鐘をかく。
富ノ松、蟠延して長さ16・17間許、其名の起りを詳にせず。
龍燈ノ松、此梢に龍燈上りしよりかく呼へり。
閻魔堂跡、近き頃廃止し、未再建に及ばず。(新編武蔵風土記稿より)


浄光寺所有の葛飾区指定文化財(有形文化財)

  • 絹本着色東照大権現(徳川家康)像一幅
  • 紙本墨画豊臣秀吉徳川家康甲冑像 2幅1対
  • 葵紋入御簾 1張
  • 藤原家定薬師堂別当職并寺領等寄進状 1通
  • 徳川家康書状 1通
  • 青龍山薬師仏像縁記
  • 徳川家光・三世御ちキリ 1通
  • 木造慈慧大師坐像 1躯
  • 木造如来形立像 1躯
  • 木造千手観世音菩薩立像 1躯
  • 木造金剛界大日如来坐像 1躯
  • 木造釈迦如来両脇待坐像 3躯
  • 浄光寺近世文書 36点
  • 加藤ひな子の碑 1基
  • 木造山号扁額 1面
  • 木造金剛力士立像 2体
木根川の地名は、昭和7年の葛飾区誕生以前には木下川と書き「きねがわ」と読ませていましたが、読みにくいため葛飾区になってから「本田木根川町」に改められたものです。木根川の地名は、本来は「きけがわ」と呼び、室町時代には「木毛河」と表記していました。すでにこの頃には上・下に分村しています。戦国期には「木毛川」となり、その後「木下川(きねがわ)」と訛ったと言われています。「木毛河」の由来は、定かではありませんが、旧葛西川(中川)でもこの地の部分を、「木毛河」と呼んだものと思われます。住居表示の実施により東四つ木1~3丁目に改められました。(葛飾区HPより)


浄光寺の周辺図


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