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鶴岡八幡宮。鎌倉市雪ノ下の神社、国幣中社、別表神社

鶴岡八幡宮の概要

鶴岡八幡宮は、鎌倉市雪ノ下にある神社です。鶴岡八幡宮は、源頼義が前九年の役の後、岩清水八幡宮を勧請して康平6年(1063)に鶴岡若宮と称して創建したといいます。治承4年(1180)源頼朝が当地へ遷座の上境内を整備、諸国の武士から尊崇を集めたといい、明治15年には国幣中社に列格していました。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮の概要
社号 鶴岡八幡宮
祭神 応神天皇、比売神、神功皇后
相殿 -
境内末社 白幡神社。武内社、丸山稲荷社、若宮(摂社)
境外摂社 今宮(新宮)、祖霊社、旗上社(弁天社)、由井若宮(元八幡)
祭日 9月15日
住所 鎌倉市雪ノ下2-1-31
備考 源頼朝墓、鎌倉・江の島七福神の弁財天



鶴岡八幡宮の由緒

鶴岡八幡宮は、源頼義が前九年の役の後、岩清水八幡宮を勧請して康平6年(1063)に鶴岡若宮と称して創建したといいます。治承4年(1180)源頼朝が当地へ遷座の上境内を整備、諸国の武士から尊崇を集めたといい、明治15年には国幣中社に列格していました。

境内掲示による鶴岡八幡宮の由緒

当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平六年(一〇六三)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承四年(一一八〇)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に努めた。建久二年(一一九一)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整した。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。(境内掲示より)

神奈川県神社誌による鶴岡八幡宮の由緒

鎮守府将軍・源頼義が勅命を奉じて奥州を鎮定(前九年の役)した翌年、即ち康平六年(一〇六三)秋八月、鎌倉郡由比郷鶴岡の地に源氏の守護神として潜かに石清水八幡宮を勧請し、由比若宮とも鶴岡若宮とも称してお祀りした事に始まる。その後永保元年(一〇八一)二月には源義家(八幡太郎)により修覆が加えられ、降って治承四年(一一八〇)十月七日、源頼朝が鎌倉に入ると先ずこの社を遥拝し、直ちに祖宗を崇めんがために小林郷北山の麓を卜定し社殿を構えて遷座を行い、鶴岡八幡宮、又は鶴岡若宮とも称した。
その後漸時偉容を整えるため、同年十二月十六日先ず鳥居を建て、治承五年(一一八一)五月より本格的な造営を始めて、武蔵国浅草の郷司を召し大工棟梁として事にあたらせ、養和元年(一一八一)八月十五日竣工して遷宮祭が斎行された。同二年(一一八二)三月十五日、御台所・政子の安産祈願のため、社殿より由比浦に至る参道(若宮大路、国指定史跡)を造り、北条時政以下の諸将が各々土石を運んだ。同年四月二十四日には大庭景義など奉行となり、社殿近くの水田三町余を池(源平池)に改めるなど、大いに境内の結構を整えた。更には治承五年(一二八一)正月朔且を以って当宮奉幣の日と定め、又、寿永元年(一一八二)九月二十三日には円城寺の僧、法眼・円暁を初代の若宮別当に補任し、元暦元年(一一八四)七月二十日墳内に末社・熱田社、後には三島社などを勧請。文治三年(一一八七)八月十五日、初めての放生会(例祭)が執り行われ、流鏑馬が催されるなど祭祀も次弟に整えられていった。
建久二年(一一九一)三月三日、鶴岡若宮で法会が行われ、流鏑馬、相撲なども行われ大いに賑わったが、その夜半町家より失火があり、社殿も悉く灰燼に帰した。頼朝は直ちに再建に着手し、大臣山の中腹を切り開いて社殿を造営し、同年十一月二十一日、新たに石清水八幡宮の御分霊をお迎えした。『吾妻鏡』同日の条に
天霽れ風静かなり。鶴岡八幡宮ならびに若宮および末社等の遷宮なり。和田義盛、梶原景時等随兵を率い、辻々並に宮中を警衛す。その後頼朝(束帯、帯剣)御参宮あり。北条義時御剣を持ち御座の傍に候す。結城朝光同じく参候す。既に殿内に遷し奉る。多好方、宮人曲を唱し、頗る神感の瑞相あり云々。
とあって、以来この日受当宮の御鎮座日とする。現在でも、十一月二十一日を太陽暦に換算した十二月十六日に御鎮座記念祭を執行し、当時のままに「宮人曲」の御神楽を奉納している。そしてこの時に本宮(上宮)と共に若宮(下宮)をも再建し、今日の如く上下両宮の姿になった。そして鎌倉幕府の尊宗を受け、東国の守護神として篤く崇敬され、鎌倉武士、御家人達の全国派遣に伴い、その御分詞も諸国に拡がり、八幡信仰が武門の神、弓矢の神として流布されていく大きな要因になる。
これと相前後して職制も逐次整備され、別当を上首とし二十五坊の供僧、小別当、御殿司、神主(大伴氏)巫女、職掌(神楽男)、承仕などが社事に奉仕した。その後建久四年(一一九三)二月二十七日、大石段下に舞殿が建てられ、同七年(一一九六)十月二十九日には宝蔵の上棟が執り行われた。更に頼朝死後の承元二年(一二〇八)十二月十二日に神宮寺が建てられ、その後千体堂、北斗堂、護摩堂(薬師堂)、五大堂など神仏習合の時代をふまえ典型的な宮寺制のもとで、鶴岡八幡宮寺とも称せられ、国家的な諸祈祷も行われた。かくて源頼朝の偉業は、その後も鎌倉幕府は勿論の事、鎌倉公方、小田原北条氏、豊臣氏、徳川幕府などが受け継ぎ、社頭の整億社領の寄進など崇敬の誠を尽した。
明治元年神仏分離に際して、諸仏堂をはじめ存続していた十二坊は取り除かれ、供僧は総神主となって祭祀を続けた。そして正覚院の宮崎博尹が初代宮司となり、神仏分離の影響による混乱を収拾し復興に力を尽した。明治六年四月十五日、明治天皇には陸軍の野外演習を上宮裏の大臣山で天覧された後、親しく御拝あらせられている。明治十五年九月十三日、国幣中社に列せられた。例祭には神輿三基を中心に神事祭があり、御旅所で鎌倉神楽の八乙女舞が斎行される。翌日には鎌倉時代さながらの流鏑馬神事が小笠原宗家、地元弓友会、氏子小中学生などにより奉納されている。境内には有名な「別当公暁のかくれ銀杏」と呼ばれる大銀杏(県指定天然記念物)が千年の風雪の中、今尚若々しく大石段脇にそそり立ち、その下方には静御前が舞を奏でたと伝えられるその位置に、舞殿が丹青の色も鮮やかにどっしりと構え、周囲の森の緑と調和を保っている。
現在の本宮は文政十一年(一八二八)徳川家斎の造営によるものであり、若宮は寛永元年(一六二四)徳川秀忠が造営したものである。神社本庁別表神社。(神奈川県神社誌より)

境内旗上弁財天の由緒

治承四年(一一八〇)八月源頼朝公は伊豆国に源家再興の旗を上げ、石橋山の戦いに敗れて房総に転じ、十月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建し、居館を定めて平家討伐の本拠とした
夫人政子は平家滅亡の悲願止み難く、寿永元年(一一八二)大庭景義に命じ境内の東西に池を掘らしめ、東の池(源氏池)には三島を配し三は産なりと祝い、西の池(平家池)には四島を造り四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。そして東の池の中の島に弁財天社を祀ったのが当社の始めで、明治初年の神仏分離の際境内にあった他の堂塔と共に除かれた。その後昭和三十一年篤信家の立願によって再興され、さらに昭和五十五年九月鶴岡八幡宮創建八百年を記念して、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元されたのである。
因みに弁財天信仰は、鎌倉時代既に盛んで妙音芸能の女神・福徳利財の霊神として世に広く仰がれている。当社に祀られていた弁財天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作で、種々の御神徳が如実に具現された人間味溢れた御神像である。(境内掲示より)


鶴岡八幡宮所蔵の文化財

  • 籬菊螺鈿蒔絵硯箱一合(国宝)
  • 古神宝類「女衣」(国宝)
  • 朱塗弓一張(国宝)
  • 黒塗天三十筋(国宝)
  • 沃懸地杏葉螺鈿平胡簶二腰(国宝)
  • 沃懸地杏葉螺鈿太刀一口(国宝)
  • 太刀一口(重要文化財)
  • 木造菩薩面一面(重要文化財)
  • 木造神楽面五面(重要文化財)
  • 木造弁財天坐像一軀(重要文化財)
  • 石造大鳥居(一の鳥居)一基(重要文化財)
  • 流造丸山稲荷社社殿一棟(重要文化財)
  • 紙本墨書鶴岡社務記録二巻(重要文化財)
  • 紙本墨書鶴岡八幡宮修営目論見図一舗(重要文化財)
  • 流権現造若宮社殿三棟一宇(県指定文化財)
  • 銅製亀甲花菱文象嵌擬宝珠一対(県指定文化財)
  • 建築金具二十四箇(県指定文化財)
  • 推黒箱一合(県指定文化財)
  • 太刀各一口(県指定文化財)
  • 鶴岡八幡宮文書(県指定文化財)
  • 石造手水鉢一基(市指定文化財)
  • 木造彩色桐竹鳳凰文華蔓一面(市指定文化財)
  • 木造黒漆塗経箱一合(市指定文化財)
  • 銅板造薬師如来懸仏一面(市指定文化財)
  • 新撰莵玖波集上下二冊(市指定文化財)
  • 木造住吉神像一軀(市指定文化財)
  • 朝鮮鐘一口(市指定文化財)
  • 境内(国指定史跡)
  • 大銀杏一株(県指定天然記念物)
  • 柏槙一株(市指定天然記念物)
  • 欅一株(市指定天然記念物)
  • 白枝垂れ柳十株(市指定天然記念物)

鶴岡八幡宮の周辺図


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