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猫の足あと

王禅寺。川崎市麻生区にある真言宗豊山派寺院

王禅寺の概要

真言宗豊山派寺院の王禅寺は、星宿山蓮華蔵院と号します。王禅寺は、延喜21年(921)に高野山三世無空上人が開山したとも伝えられ、かつては禅宗・律宗・真言宗の三宗を兼学したともいいます。新田義貞の鎌倉攻めに際して兵火に罹災したものの再興、室町時代には真言密教の道場となり、関東の高野山とも称せられ、寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を拝領、境内に5塔頭、近郷に数多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。旧小机領三十三所子歳観音霊場22番です。

王禅寺
王禅寺の概要
山号 星宿山
院号 蓮華蔵院
寺号 王禅寺
住所 川崎市麻生区王禅寺940
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



王禅寺の縁起

王禅寺は、延喜21年(921)に高野山三世無空上人が開山したとも伝えられ、かつては禅宗・律宗・真言宗の三宗を兼学したともいいます。新田義貞の鎌倉攻めに際して兵火に罹災したものの再興、室町時代には真言密教の道場となり、関東の高野山とも称せられ、寛永19年(1642)には江戸幕府より寺領30石の御朱印状を拝領、境内に5塔頭、近郷に数多くの末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。

新編武蔵風土記稿による王禅寺の縁起

(王禅寺村)王禅寺
村の東の方の山上にあり、星宿山華蔵院と號す、當寺は近郷にての古刹にして、しかも頗る大寺なり、古は久良岐郡金澤稱名寺の末にして、禅・律・眞言の三宗を兼學せしと云、今は京都醍醐三寶院に屬して密教のみを奉せり、開闢の来由は詳ならず、寺傳には孝謙天皇御靈夢の告により當村の小名光かか谷の土中より、一寸八分の観音を穿出さしめ給ひ、伽藍を御創建あり、年へて破壊せしを、崇徳院の御宇御再建ありしなどいへど、これは全く後に説し妄説なるべし、孝謙帝佛を信じましませしにより、附會の説をなせしもの、ここにもかぎらずあまたあり、又崇徳院の頃は世の中やうやうおだやかならず、かかる東國邊鄙までの御結構に及ばざるべきやうなければ、とかく古のことは傳はざるならん、されど古刹なることは、今よりもその境内のさまをはじめとして、語ゆべからざること多く見ゆ。【小田原北條家役帳】に、麻生内王禅寺領五十貫文とあり、是永禄の頃なり、天正の頃の文書には、三十貫文とのす、かくあまたの寺領ありしこと鎌倉将軍家時代よりの名残なるべくおもはる、御當代に至りても、寛永十九年寺領三十石の御朱印を賜はれり、境内もまたいとひろし、土人の傳へに、いつの頃か當山を關東の高野山と號せしと、その地のさまをうつさんとせしに、山内の谷々九十九ありて百谷にたらざりければ、やみしといへり、是は誤し説なるべけれど、境内のひときことはこれにてもはかりしるべし。
二王門。四間に二間半、前にそこばくの石階あり、それより前境内の入口まで、左右に古木並たてり。
石階。二王門の内にあり、高さ十五間ほど。
本堂。七間四方。南向なり、大悲閣の三字を扁す、本尊は観音、木の坐像にて、長二尺八寸ばかり、これは後世造しものなりと云、昔の本尊はいつの頃か失ひて今はなし、前にかくる所の鰐口に刻して云、奉寄進相州小田原西光院圓盛、武州星宿山王禅寺常在としるし、裏に元亀二年十二月吉日、諸願成就、皆令満足とあり。
寺寶。古文書五通(文面省略)
客殿跡。本堂の巽の方にあり、近きころ回禄にあひて再興せず、又庫裡等もこのつづきなりしが、これも焼失せりと云、この時記録なども多くうしなひしとおもはる。
稲荷社。堂に向て左にあり、小祠。
青龍権現。同ならびにて左にあり。
寺中。
金剛院。本堂より西の方にあり。
持明院。同南の方にあり。
東持院。同南の方によりてあり。
寶幢院。同西にあり。
蓮乗院。同西の方にあり。(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による王禅寺の縁起

禅寺丸之記
抑々当山者星宿山蓮華蔵院王禅寺と称し真言宗豊山派ニ属ス。延喜二十一年高野山三世無空上人ノ開山ニシテ関東ノ高野山ト称セラレ東國鎮護ノ勅願寺トナル。然ルニ元弘三年新田義貞鎌倉進攻ノ戦乱ニヨリ一山悉ク烏有ニキス。斯クテ応安三年久良岐郡金沢称名寺ニ於テ紅熟セル柿の果実ヲ発見其ノ甘味豊潤ニシテ他ニ類例ヲ見ズ。依テ寺庭ニ移植シ更ニ近在ノ人々ニ栽植ヲススメ王禅寺丸ト命名セリ。下ツテ江戸幕府創立後ハ市場ニ多ク出荷サレ競賣ノ砌王ヲ略シテ禅寺丸ト称スルニ至ッタノハ元禄時代ノ事ト伝エラレル。処ニヨッテハ丸柿或ハ黒熟トモ云イ隔年結果ノ習性ヲ持ッテイル。明治三十六年求メニ応ジ広島岐阜、静岡、福島ノ各県ニ苗水ヲ送ッタガ』福島デハ結果セルモ渋柿ニ変ッタト報告サレテイル(以後省略)(境内石碑より)


王禅寺の周辺図