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稲毛神社。川崎市川崎区宮本町の神社

稲毛神社の概要

稲毛神社は、川崎市川崎区宮本町にある神社です。稲毛神社の創建年代は不詳ですが、第二十九代欽明天皇(在位539年-571年)の代に武甕槌神を祭神として鎮座、平安時代末期に当地を領した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」と改称したと伝えられます。また一説には鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿を造営・創建したともいいます。江戸時代には「山王社」として社領20石の御朱印状を拝領、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として崇敬を集めていました。明治維新の神仏分離令により「川崎大神稲毛神社」へ、さらに「稲毛神社」と改称しました。

稲毛神社
稲毛神社の概要
社号 稲毛神社
祭神 武甕槌神
相殿 経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神
境内社 大鷲神社、堀田稲荷神社、第六天社、河崎天満社、白山神社、佐々木神社、浅間社、三峰神社、御嶽神社、八坂神社、大神宮、松尾神社、金刀比羅宮、福田稲荷神社
祭日 例大祭8月2日
住所 川崎市川崎区宮本町7-7
備考 旧郷社、別表神社



稲毛神社の由緒

稲毛神社の創建年代は不詳ですが、第二十九代欽明天皇(在位539年-571年)の代に武甕槌神を祭神として鎮座、平安時代末期に当地を領した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」と改称したと伝えられます。また一説には鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿を造営・創建したともいいます。江戸時代には「山王社」として社領20石の御朱印状を拝領、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として崇敬を集めていました。明治維新の神仏分離令により「川崎大神稲毛神社」へ、さらに「稲毛神社」と改称しました。

新編武蔵風土記稿による稲毛神社の由緒

(堀ノ内村)山王社
村の坤の方にあり。社領二十石を付らる。当社は当村川崎宿渡田大嶋川中島稲荷新田等の鎮守にして、祭神は伊弉册尊菊理媛経津主命武甕槌命の五坐を安ぜり。欽明天皇の御宇当所に鎮座して古は武甕槌の神社と称せしにいつのころにか山王権現の社と改号せりと云。ざれば伊弉册尊以下四坐の神は後配祀せるにや、又川崎宿宗三寺の傳記には源頼朝の代に佐々木四郎高綱奉行して建立せりと云。古棟札の存するものあり。其文に東関之武陽橘樹郡稲毛領庄川崎領堀ノ内村、維時慶長拾陸暦大才、施主鈴木石見能幸、三冬仲下幹五日開眼供養とあり、又元禄八年宮内左衛門敦信が修理を加へしときの棟札あり、其文は略せり。例祭は毎年正月三日流鏑馬の式を行ひ、六月十五日神輿を出して鎮守とする処の村々をすき、渡田村の旅所へ渡す、十二月二十七日には社内にて市を立て商人等つとへり。本社は二間に一間半、幣殿一間半に二間半、拝殿五間半に二間半、まへい幣殿につづきて作れり。社前に石鳥居を立、いづれも前に向ふ。
神楽堂、本社に向て右にあり、三間に二間。
末社。
天神社、本社に向て左にあり
。熊野三社、是も同く左にあり、九尺に三尺。
疱瘡神社、同く左にあり、もと御代官を勧めし田中休愚右衛門の子孫吉蔵近年修理を加へしと云。
猿田彦社、本社を隔てて後にあり、二間四方文化元年、川崎宿の百姓とも建立せりと云。
神主鈴木主馬。社地に住す、先祖は紀州熊野より出しものにて、いつの頃にかこの地にうつり住せり。天文元年三月朔日鈴木重種がしるせし鈴木家の系図の由来の書あり。そのことからは取べきものなけれど古き家なることは是にてもしらる、世々神職を司る吉田家の配下なり、今社領に付し水帳に、堀ノ内村山王領合て二十二石一斗八升余、天正二十年八月七日としるしあれば、慶長の前社領ありしことは知べけれど、慶長四年二月に至り始て高二十石の御朱印をたまひしは、鈴木石見能幸といひしものの時なるべし、此人慶長十六年の棟札に名みえたり。又此家に制禁の書を蔵せり。是は当社につきしものとはみえざれど、蔵する所なればここに附せり。
禁制 武蔵国稲毛郷河崎六ヵ村
一、軍勢甲乙人等濫防狼藉事
一、放火事
一、封地下人百姓非分之儀申懸事
右條々堅令停止訖、若於違犯之輩者、速可被処罪科者也。太閤秀吉印あり。
天正十八年四月日(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による稲毛神社の由緒

当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。
社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊の折当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。
鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年 (一四〇四) の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年 (一四五八) 銘の鰐口は、河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜り、江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。
例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家 (秩父平氏) が山王権現を勧請して以後、「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶応四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折りの殿下の御言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。
旧御社殿は、江戸中期の宝永年間に田中丘隅の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが、昭和二十年の空襲により惜しくも灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリ-ト神明造り、延べ面積百一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。
なお当神社は、昭和四十一年、神社本庁より「別表に掲げる神社」に指定されました。(境内掲示より)

川崎市掲示による稲毛神社の由緒

史跡東海道川崎宿
稲毛神社
当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(1404)に大般若経写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。(川崎市掲示より)

神奈川県神社誌による稲毛神社の由緒

創建年代不詳であるが、社伝によれば景行天皇東国御巡遊の御、当神社御祭神の威徳により賊難を避け給うたと云う。欽明天皇の御代、東国の動乱鎮撫を祈願されて、当神社に勅幣を奉り、新たに経津主神・菊理媛神・伊弊諾神・伊弊再神を配祀せしめられ、以後溝長く勅願所であったと言われている。鎌倉時代には社領六〇石を賜り、佐々木高綱が頼朝の命を受けて社殿の造営に当ったことが当地宗三寺縁起及び佐々木神社御由緒に見える。其後、佐々木氏の子孫間宮氏が代々川崎の代官として当社を篤く崇敬した。足利時代には、時の神職が新田氏と関係が深かった為、社領を削られ、天正年間検地水帖には山王神領二十一石余と記され、徳川家康二十石の朱印状を下された。江戸時代中期以降は平和な時代風潮にのって当社も般賑を極め、社家九家、社人十三軒に及び、旧暦六月十五日の例大祭は東の祇園と称され、街道名物の随一であった。又九月相撲、十二月歳の市、正月流鏑馬等が盛大に行われていた。当神社は始め御祭神の御名の億に武褒槌神宮と称したが一般には五社山王、山王権現という御称号で永く近隣一円の氏神として親しまれてきた。慶応四年有栖川宮総督江戸御征討の為下向の途次当社に御休憩遊ばされ、その折の親王の御言葉により所在地稲毛庄の庄名をとり稲毛神社と改称し現在に及んでいる。旧社殿は江戸時代に造営された荘厳優雅な建造物であったが昭和二十年の空襲により惜しくも烏有に帰した。併しその後氏子崇敬者の赤誠により昭和三十八年には華麗なる御社殿、明治百年には大息居、昭和四十五年には神楽殿の再建を果し、京浜第一国道に沿って一大偉容を誇っている。例大祭は三体の大神輿の渡御で賑い近郷近在の人々の尊崇と敬慕の的となっている。尚当神社は昭和十六年神祇院よりの内示で県社昇格の手続を進めていたが戦争の激化の為遅延し内認可の段階で終戦となった為正式実現を見るに至らなかった。昭和四十一年神社本庁創立二〇周年に際し別表に掲げる神社に推挙せられ今日に至っている。(神奈川県神社誌より)


稲毛神社所蔵の文化財

  • 宮座式(神奈川県文化財)
  • 川崎山王まつり(神奈川の祭り五十選)
  • 手水鉢(川崎市文化財)

手洗石

本手洗石は、田中休愚が勘定支配格に就任した享保十四年(1729)に、彼の一族と手代衆らによって、川崎宿の鎮守であった山王社(現在の稲毛神社)へ奉納されたものです。
田中休愚(1662-1729)は、江戸時代中頃の人で、大著「民間省要」を著し、民政に大きな業績をあげたことで知られています。また、彼は川崎宿の本陣職を務め、衰退していた川崎宿の立て直しや二ヵ領用水の改修などの大事業を成し遂げたことでも有名です。
本手洗石は、田中休愚と彼の活躍の舞台であった川崎宿との係わりを物語る資料であり川崎宿に残された数少ない資料として貴重な価値をもっています。
なお、本手洗石の正面には、これを奉納した五人の名前が、力強い文字で刻み込まれています。田中仙五郎は休愚の次男で、田中団助も休愚の縁者であったと思われます。森田重郎衛門・富永軍冶・門田半四郎の三人は、休愚の土木治水事業を補佐した技術者で、現場をまわって土木工事を指導した監督者として、当時の文献にもしばしば登場しています。
川崎市教育委員会は、昭和六十三年十一月二十九日、本手洗石を川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)


稲毛神社の周辺図


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