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大法寺|江戸川区平井にある日蓮宗寺院

大法寺の概要

日蓮宗寺院の大法寺は、宝聚山と号します。大法寺は、法恩寺第八世大権院日巧上人(千葉常明の子)が、大永2年(1522)法恩寺境内に創建したといいます。日蓮聖人が刻んだといわれる「広布石」は疱瘡の守護神として江戸市民の信仰を集めていたといいます。

大法寺
大法寺の概要
山号 宝聚山
院号 -
寺号 大法寺
住所 江戸川区平井1-25-37
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大法寺の縁起

大法寺は、法恩寺第八世大権院日巧上人(千葉常明の子)が、大永2年(1522)法恩寺境内に創建したといいます。

江戸川教育委員会掲示による大法寺の縁起

建長5年(1253)の夏に、日蓮聖人が房州清澄山から鎌倉に向かう途中、亀戸の地を通ったおり、同地の住人、千葉某が聖人の教えに帰依したので、聖人は七文字の題目を書いて与えました。千葉氏はこれを石に刻み、宝塔をを建てました。人々は聖人が広宣流布の大願を込めた石であるというので、「広布石」と呼び、参拝祈願するようになりました。
その後、数代を経て、千葉常明の一子、万千代が疱瘡を病んで死にましたが、広布石の功徳により不思議にも蘇生したといわれています。
万千代は成人すると出家して、本所法恩寺の住職日悦上人の弟子となり名を大権院日巧と改め、大永2年(1522)大法寺を創立しました。(江戸川教育委員会掲示より)

「江戸川区史」による大法寺の縁起

大法寺(平井一丁目二五番三七号)
宝聚山と号して日蓮宗の古寺である。草創の当初は本所にあったが、火災にあって麴町から谷中に移り、更に本所業平に移転し、大正十二年には震災で焼失したので昭和四年に現在地に移転した。
起立の由緒は建長五年の夏、日蓮聖人が房州の清澄山から鎌倉へ向う途中亀戸の地を通ったとき、土地の住人で千葉某が聖人の教えに帰依したので、聖人は七文字の題目を書いて与えた。千葉氏はこれを石に刻み亀戸の地に宝塔を建てた。人々は聖人が広宣流布の大願をこめた石であるというので「広布石」と呼び参拝祈願するようになった。その後数代を経て千葉常明の一子万千代がほうそうを病んで死んだが、その通夜の晩、常明の夢枕に三十番神が現われて「広布石護持の功徳によって万千代の寿命を助ける。成長の後は必ず出家させよ」とのお告げがあった。かくて万千代は不思議にも生きかえったので、成人すると出家して本所の法恩寺住職日悦上人の弟子となり、名を大権院日巧と改め、大永六年(一五二六)法恩寺の境内に一寺を建立して三十番神と広布石を奉安した。これが大法寺の始まりである。江戸時代になってからは、この広布石と三十番神は疱瘡の神として広く市民から信仰された。広布石は現在も寺宝としている。墓地に常磐津の岩沢古式部、俳人咫尺斎寥和四世の墓がある。(「江戸川区史」より)

東京名所図会による大法寺の縁起

大法寺
大法寺は中之郷業平町十二番地に在り。寶聚山と號す。日蓮宗にして。法恩寺の末なり。開山は大権院日巧上人にて。中興を日陽上人とす。
新編江戸志に縁起を載せて云。抑當山は人皇百五代柏原院大永六年草創。平河山第八世大権院日巧上人今の御廓内平川に造立す。本願の宿意は廣布石より事起れり。此妙石元来千葉石とて千葉家代々寶石也。開基日巧上人は千葉氏。亀井戸の産也。往古は亀井戸迄は吾妻海道也。日蓮上人房州より鎌倉御通の砌。此千葉石へ超入醍醐の妙名を書玉ひ。廣宣流布の願を立給ふ。則廣布石と名付永々千葉氏尊敬せり。然るに日巧六歳の時疱瘡て既に死す。父母悲にたへざる所一人忽然とし現し。われは是卅番神也とて良薬を與へ玉ふと見て夢覺ぬ。七子忽蘇生す。是廣布石の利益なりとて。一子を出家させしむ。是則日巧なり。壮年精舎造立す。後谷中に轉地す。又元禄年中今の本所に移る。廣布石は本堂に安置す。日巧上人三十番神を彫刻し玉ふ。今に夢想疱瘡の守を出すと也。(東京名所図会より)


大法寺の周辺図