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日本橋西河岸地蔵寺教会|中央区八重洲にある単立寺院

日本橋西河岸地蔵寺教会の概要

日本橋西河岸地蔵寺教会は、中央区八重洲にある寺院です。日本橋西河岸地蔵寺教会は、行基菩薩が遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた際に自ら彫刻した御丈2尺8寸の御尊像を祀ったものだといいます。享保3年(1718)9月、当地に地蔵堂として建立、正徳院と称していたといいます。

日本橋西河岸地蔵寺教会
日本橋西河岸地蔵寺教会の概要
山号 -
院号 -
寺号 日本橋西河岸地蔵寺教会
住所 中央区八重洲1-2-5
宗派 単立
葬儀・墓地 -
備考 日限地蔵尊



日本橋西河岸地蔵寺教会の縁起

日本橋西河岸地蔵寺教会は、行基菩薩が遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた際に自ら彫刻した御丈2尺8寸の御尊像を祀ったものだといいます。享保3年(1718)9月、当地に地蔵堂として建立、正徳院と称していたといいます。

境内掲示による日本橋西河岸地蔵寺教会の縁起

当寺に安置してある地蔵菩薩は、人皇44代元正天皇(715-724)の御宇、諸国巡歴中の名僧行基菩薩が、衆生結縁のために暫く遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた折に、地蔵菩薩の霊告を受け、自ら御丈2尺8寸の御尊像を彫刻したものと伝えられています。
この地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな事は古来より広く世に知られています。
享保3年(1718)9月、勝縁の地としてここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数えます。建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺でありました。その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年9月の関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に至っています。
なお、現在の堂宇は昭和52年4月新たに建て替えられたものです。
昭和59年9月14日 信徒一同、住職高羽彦价(境内掲示より)

東京名所図会による日本橋西河岸地蔵寺教会の縁起

地蔵堂
地蔵堂は。西河岸町に在り。日限地蔵尊を安置す。方今四海鹿峰氏之を管理す。本尊は行基の作にして。享保三年の建設に係る。其の後火災に罹り。文政七年八月再築すといふ。毎月四の日を以て縁日とし。諸商露店を張り。参詣する信者甚た多し。同日は尊前に於て。必らず家内安全子孫長久諸願成就の祈祷を修むるよしなり。(東京名所図会より)

「中央区史」による日本橋西河岸地蔵寺教会の縁起

日本橋西河岸地蔵寺教会(八重洲一の三)
曹洞宗臬に属し、開山は戒山恵明、享保三年の創建で、古く正徳院と称する。俗に称して西河岸の地蔵様といい、天台宗の堂宇であった。本尊に安置するのは僧行基の作と称される日限地蔵菩薩である。明治初年には排仏毀釈の難にあい、毎月町内各戸で輪番式に奉安してきたが、明治十二年九月境外仏堂として官許を得、以来仏堂に安置した。大正十二年震災に焼失したが本尊は取出すことができ、昭和十七年曹洞宗に改めた。同二十年三月空襲によって堂宇一切灰燼と化したが、同二十四年七月再建をみた。翌二十五年二月よりは非法人から宗教法人とへ切換へられた。毎月四・十四・二十四日の日を縁日としているが、これは昭和二十八年七月に再開されたものである。信徒百名、毎年節分会には縁結びの麻と脚気まぢなひの酸漿を頒与する。境内に大震災供養の碑がある。(「中央区史」より)


日本橋西河岸地蔵寺教会所蔵の文化財

  • 板絵着色お千世の図額 附 目録(中央区登録文化財)

板絵着色 お千世の図額

大正4年3月、本郷座で泉鏡花原作「日本橋」初演のおり、当時21歳の無名であった新派の俳優、花柳章太郎は、お千世の役を熱望し、劇と縁の深い西河岸地蔵堂(昭和24年、日本橋西河岸地蔵寺教会となる)に祈願しました。「日本橋」は檜物町(現、日本橋3丁目、八重洲1丁目)の花街を舞台とした、いわゆる日本橋芸者の物語で、お千世は登場する芸妓のひとりでした。章太郎は、この劇でお千世役に起用されて好演し、これが出世役となりました。
ここに所蔵される「お千世の図額」は、2度目のお千世役である昭和13年の明治座上演の際に、章太郎が奉納したものです。この絵を描いた小村雪岱は、「日本橋」の本の装丁や挿絵も担当した日本画家で、図額には章太郎と鏡花の句も添えられています。この「お千世の図額」は、地域にもゆかりの深いものとして、中央区民有形文化財に登録されています。(中央区教育委員会掲示より)


日本橋西河岸地蔵寺教会の周辺図