水天宮|中央区日本橋蛎殻町の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

水天宮|日本橋七福神の弁財天、下町八社巡りの一社

水天宮の概要

水天宮は、中央区日本橋蛎殻町にある神社です。水天宮は、久留米藩主有馬頼徳公が港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の御分霊を文政元年(1818)勧請して創建したといいます。藩邸の移動に伴い、青山への遷座を経て、明治5年当地に遷座しました。日本橋七福神の弁財天、下町八社巡りの一社です。

水天宮
水天宮の概要
社号 水天宮
祭神 天御中主大神、安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼
相殿 -
境内社 紫灘神社、弁財天、秋葉神社、火風神社、高尾神社
住所 中央区日本橋蛎殻町2-4-1
備考 日本橋七福神の弁財天


御朱印はいけみずさんより寄贈


水天宮の由緒

水天宮は、久留米藩主有馬頼徳公が港区赤羽の藩邸内に久留米市水天宮の御分霊を文政元年(1818)勧請して創建したといいます。藩邸の移動に伴い、青山への遷座を経て、明治5年当地に遷座しました。

境内掲示による水天宮の由緒

当社は文政元年(1818)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は今からおよそ700年程前に創建されたと伝えられております。彼の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ち延び、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。
江戸時代の水天宮は藩邸内にあった為、庶民は普段参拝できず、門外より賽銭を投げ参拝したといいます。ただし毎年5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が解放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が没収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年11月1日、現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる新大橋に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和5年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年現在の権現造りの社殿となりました。(境内掲示より)

「中央区史」による水天宮の由緒

水天宮(日本橋蛎殻町三の二)都電水天宮停留所際にある。久留米(福岡県)水天宮の本社と同じく天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位の尼を祀り、古来水神としてあるいは安産の加護神として人々の尊崇を集めてきた。文政元年十一月江戸赤羽(現、港区芝赤羽)有馬藩邸に遥拝所を設け分靈を遷したのが創建の由来で、明治四年八月赤坂に遷座し、翌年現在地に鎮祀して同十一年五月七日官許を得たものである。以来全国にわたる崇敬者の信仰を集め、一年一年隆盛を加え、かつ門前町として人形町の殷賑を招来した。大正十二年九月の震災に見舞われたため、昭和五年三月新社殿を造営したが、これが今みるところのものである。敷地五八五坪、社殿一五坪、社務所二二坪、門番所一〇坪、御鬮場一坪三合と称する。
毎月一日・五日・十五日・戌の日に月次祭を行うが、初水天宮・例大祭(五月五日)・戌の年戌の日には遠近より来り詣でる人々多く繁華雑沓を呈するが、その繁昌ぶりは他にその比を見ないといわれる。神楽七十五座や覍地元有志の余興が奉納され、境内外には縁日がところ狭しと立ちならび、参詣者陸続としてつづく盛況は都下の一異観であった。上図は明治三十三年ごろの水天宮景況であり、その繁昌を表門側すなわち今の都電線路側から描いたものであるが、今日の水天宮と比較して甚だ興味深いものがあろう。月次祭に頒与する神符は鑁・吨羅俱・吽・糺哩窶・痾の五文字から成りこれを「いつもじ」というが、久留米筑後川に宝剣を写し、その映った水で墨をすって謹製するものだという。この文字を水で頂くと有難いと喧伝されるが、信仰者は真中の文字より指でち切って頂き、次に左下・左上・右上・右下と恰も平仮名の「の」の字のごとき順序に頂くという。祭神および神符の沿革については新修日本橋区史に詳しい。
境内社に火風神社・秋葉神社(鎮火の神)・高尾神社(雨の神)があり、別に真木和泉守保臣の霊を祀った紫灘神社が明治十年以来本殿の南側に依願設置されている。また、昭和二十七年境内社として中央弁財天を奉祀し毎月已の日に月次祭を執行している。これは北品川旧有馬別邸にあったもので、品川七福神の一つに数えられていたが、俗に虫歯弁天または宝生弁天とよばれる丈三尺の像で雲慶作と伝えられる。(「中央区史」より)

東京都神社名鑑による水天宮の由緒

文政元年(一八一八)、有馬頼徳公が領地久留米の水天宮を、三田赤羽の藩邸に勧請されたにはじまる。明治元年、有馬家とともに青山へ、同五年、今日の蠣殻町有馬邸に遷座された。現在の社殿は昭和四十二年十一月鉄筋の権現道に改築されたものである。安産・水難除等の神として崇敬者は全国に広がっている。毎月五日戊の日、五月五日の例祭日は大いに賑わう。(東京都神社名鑑より)


水天宮の周辺図