猫の足あとによる中央区の寺院、神社など中央区の寺社案内 猫の足あとによる中央区の寺院、神社など中央区の寺社案内
猫の足あと

三光稲荷神社|中央区日本橋堀留町の神社

三光稲荷神社の概要

三光稲荷神社は、中央区日本橋堀留町にある稲荷神社です。三光稲荷神社は、当地付近(旧長谷川町)に居住した絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家が江戸時代初期に勧請したとも、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が元禄2年(1689)以前に伏見より勧請したもいいます。大正13年の区画整理で当社のある旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町2丁目になり、旧田所町の田所大明神も当神社に奉祀されたといいます。また、拝殿右上の額「日本橋区長谷川町守護神三光稲荷神社」は神田神社宮司平田盛胤氏の揮毫だといいます。

三光稲荷神社
三光稲荷神社の概要
社号 三光稲荷神社
祭神 三光稲荷大神、田所稲荷大明神
相殿 -
境内社 -
住所 中央区日本橋堀留町2-1-13
備考 -



三光稲荷神社の由緒

三光稲荷神社は、当地付近(旧長谷川町)に居住した絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家が江戸時代初期に勧請したとも、中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が元禄2年(1689)以前に伏見より勧請したもいいます。大正13年の区画整理で当社のある旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町2丁目になり、旧田所町の田所大明神も当神社に奉祀されたといいます。また、拝殿右上の額「日本橋区長谷川町守護神三光稲荷神社」は神田神社宮司平田盛胤氏の揮毫だといいます。

境内掲示による三光稲荷神社の由緒

中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は、「江戸惣鹿子」元禄2年(1689)には記載があることからそれ以前と推測される。
近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした江戸落語に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。
古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された。(境内掲示より)

「中央区史」による三光稲荷神社の由緒

三光稲荷神社(日本橋堀留町二の八)一に三十郎稲荷と称し旧長谷川町の町内神社として崇敬された。嘉永の切絵図に三光稲荷と見え、古鹿子に三十郎稲荷とあるが、いつの頃から三光と改めたかは詳らかでない。現社敷地二十七坪余、社殿は震災後の造営にかかり延十七坪二合余で今次大戦の災厄はまぬがれた。氏子は堀留町二丁目の約百二十四戸、「新撰東京名所図会」には、『娘、子供、芸妓等が、三十郎の容所を愛でつゝ参詣するもの夥しかりしより、誰いふとなく、三十郎稲荷には猫が寄るとの風説より訛伝して、猫児を見失ひし時、立願すれば験ありとなむ、又鼠除の守札を出すと。このこと砂子にも鹿子にも見えず』と記されているが、現在でもよろず猫に関する願いごと御利益ありとして、猫の失踪した時に三光稲荷に祈願する者が多い。(「中央区史」より)

東京都神社名鑑による三光稲荷神社の由緒

慶長八年(一六〇三)、家康が江戸城開設のころ、当時の長谷川町、現在の堀留二丁目に居住された絹布問屋田原屋村越庄左衛門、木綿問屋建石三蔵の両家は、海岸を埋立てて貸家をたて、大家主、大地主となった。そこで天の光、地の恵み、人のお蔭様に感謝して、三光稲荷大神としてお祭り申し上げたのが、神社のはじまりである。現在日本橋堀留二丁目の産土神として、住民の崇敬を受け、多数の繊維問屋の守護神として、業者の感謝を受けている。(東京都神社名鑑より)

東京名所図会による三光稲荷神社の由緒

三光稲荷神社
三光稲荷神社は、二十三番地にある小社なり。嘉永の切絵圖に三光稲荷と見えたるが、古鹿子に、はせ川町、三十郎稲荷とあるを當社なりといへり。さればいつの頃よりか三光と改めしか、詳らかならざるも、堺町に歌舞伎ありし頃、關三十郎といへる俳優ありて、其の屋敷内に勧請ありたる稲荷なればとて、三十郎稲荷と呼びしと、其の頃のことかとよ、娘子供藝妓等が、三十郎の容色を愛でつ、参詣するもの夥しかりしより、誰いふとなく、三十郎稲荷には猫が寄るとの風説より訛傳して、猫兒を見失ひし時、立願すれば験ありとなむ、又鼠除の守札を出すと。このこと砂子にも鹿子にも見えず。(東京名所図会より)


三光稲荷神社の周辺図