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常盤稲荷神社|中央区日本橋本石町の神社

常盤稲荷神社の概要

常盤稲荷神社は、中央区日本橋本石町にある稲荷神社です。常盤稲荷神社は、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名付け、同城の守護神として勧請されました。その後江戸時代には、日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座されました。水神大神は、明治34年に神田神社境内に遷座し、現在に至っています。

常盤稲荷神社
常盤稲荷神社の概要
社号 常盤稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 罔象女神
境内社 産千代稲荷神社
住所 中央区日本橋本町1-8-11本町一丁目町会事務所
備考 -



常盤稲荷神社の由緒

常盤稲荷神社は、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築城の際、同城の守護神として京都伏見稲荷大神の御分霊を勧請したといいます。その後江戸時代には、大橋付近に移され、橋名を常葉橋と改称したといいます。その後日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀ったといいます。水神大神は、明治34年に神田神社境内に遷座し、現在に至っています。

境内掲示による常盤稲荷神社の由緒

当社は室町中期長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名付け、同城の守護神として勧請された。後に徳川家康公開府により、江戸城郭拡張工事が行われ、現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。
宝暦(1751-)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
名に高き葦のなぎさの葦原に 鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。
その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三天王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。
この水神大神は、明治34年に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。
合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命、三穂津比売命ニ柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される慣わしがあり、当時は魚市場桜花爛漫の景観であったといわれている。(境内掲示より)

「中央区史」による常盤稲荷神社の由緒

常盤稲荷(日本橋町一の八)旧米河岸九号地に鎮座しているが、以前日本橋魚市場内長浜町四番地にあったものを震災後の区画整理により換地したものである。創建当時の由緒は詳らかでないが、江戸城が築かれてから常盤橋に遷座したものともいう。明治六年一月神田神社の兼勤社となる。境内社に道灌神社・江戸神社・青淵神社・祖霊社などがあり、神社相殿には水神が祀られている。合殿水神は大市神交易神とも称して魚市場の者等が祭祀して来たものであるが、いわゆる水神祭なるものは魚商連中が商売繁昌を祈るために長浜町の水神を小田原町に祭り、九月五、六、七の三日神輿・山車の行列美々しく各町をねり回ったのが濫觴をなすものである。この水神は神田神社旧神官甫喜山景雄が家に持ち伝えたものを、明治六年八月に至り当社へ合祀の儀を出願し、同年九月四日遷座鎮祭したものである。氏子は本町一丁目および室町一丁目にあり約五百戸をかぞえる。現在同社には絵馬。絵図各一点の外義士打入の際使用したと伝えられる雅楽太鼓が所蔵されている。(「中央区史」より)

東京都神社名鑑による常盤稲荷神社の由緒

常盤稲荷はいにしえ、太田道灌公が千代田城を築城(一四五七)のさい、伏見稲荷大神の御分霊を勧請し、常盤稲荷として長く同城の守護神として尊信された。くだって同城が徳川将軍の江戸城として築城のさい、現在の常盤橋の辺りに遷座され、その後、日本橋魚市場の内長浜町に遷座し、市場の産土神と、祭神が衣食住の大神と尊び奉る倉稲魂の神であるきわめて深き御神宝なるために、魚市場付近一帯は衣食住に関係ある場所がらだけに尊信を集め、同方面の興隆繁昌を招来したのである。相殿に水神宮があり(祭神罔象女神)、魚市場尊崇によりて勧請し、古来大市場交易神とも称して、水神祭を盛大に執行、大江戸の名物であった。(東京都神社名鑑より)

東京名所図会による常盤稲荷神社の由緒

常盤稲荷神社、水神社、入船稲荷神社
常盤稲荷神社は、日本橋魚市場内、長濱町に鎮座せり、祭神は倉稲魂命なり。輻徳神社の社掌森村氏、之が受持奉祀神職たり同氏に就て、當社の由来を尋ぬるに、鎮座の年月は詳かならずど雖、往古魚市場未開の頃迄は、江戸城内に在りて、将軍徳川氏、城郭建築の際、此地へ遷座したるものなりといへば、慶長前後なるべし。其の後数度の回禄にて、古記録、寶物、什器等悉く烏有に歸しぬ。さて寶暦年間迄、社殿に掲げありし、太田道灌が奉納せらしといふ額面に、左の和歌一首ありしと。
名に高き芦のなきさの葭原に 鎮め座ます常盤の神
神號を常盤稲荷といへるより、常盤橋門内に座ませし神なるべしと森村氏はいへど、常盤橋は、むかし大橋と唱へ、三代将軍家光公の時、常盤橋と改稱したりしこと事蹟合考に詳らかなれば、此の説信じ難かるべし。現存せる品に、正徳三年癸巳二月初午と記せし提灯一張あり又當社附属の木彫金箔押の獅子頭の如きは、古来江戸市中無二の彫刻物なりしとか。
當社相殿に、水神宮の鎮座あり。神社記曰、人皇三十五代の帝舒明天皇、攝津國有馬の温泉に行幸せる時、其の國佃の濱の漁士等網ひきて魚とるに、数度幸なく、巫女度そを叡覧まして、長くも御冠を令解給ひて、其海に抛ち給ひ、宣らせ給ふ、詔のまにまに其處に網せしかは、一曳に大なる漁ありき、天皇大歓喜坐し、再詔ありて、更に卸すに、如何にしけむ、網手心安く引ことを得ず、於爾海面急に荒て、奔浪高く起り、空雲りて雨零迅風吹て、暗の夜の如くなりき、忽然神光暉わたりて、其恐怖し、やや辛して曳揚ぬれば、一箇の神玉石をなん得たり、其清潔玲瓏しきこといと靈妙なれば、帝に捧進しに、畏くも御掌に令取給ひ、居給ひて、是は奇寶にこそ、神とも神に斎くべき物ぞと、勅命給ひて、件の漁長に給はりければ、則天拝開運石と稱號奉りて、水神石となも祝奉ぬ故、其冠を抛ち給ひし海原を於今冠浮となも申とかや、其漁長は、則ち見一氏の遠祖なり、其神石は、是この身體には坐ましける。(中略)東照神君の御軍陣の節、其浦邊の漁船を召されんと、長見一孫右衛門が家に成らせ、此神石の由縁を聞し召し、御拝せ給ひて、上意に、かく不圖開運石を拝む事は、必我軍の勝利あらむ瑞祥ならめ、疑なしとのたまひて、昔日の例を思欲召て、開運大臣石とそ號け給ひき、且其の家の庭に、松樹三根あるを看そなはして、木を三つあはせれば、森なるべし、自今以後見一氏を改めて、森と稱べしと上意のままにかく改めき、其時よりして、御贄の魚を貢進る事を勤しみ、亦西国筋の隠密の御軍用を務めしかば、天下御平均の後、江都に召寄られ、魚取の御用を蒙りてより、かかる魚坐の基ひとはなりぬ。(中略)と、例年祭禮を營むに、日本橋魚市場といふ、場所柄なれは勇ましく、山車、屋臺に囃し立て、群集雑沓甚だ賑へり。
末社入船稲荷神社あり、往昔江戸橋附近に鎮座ありし祠なりしとか、維新の際、末社として遷座ありき、舟子、囘漕店等の信仰多しとなり。(東京名所図会より)

境内社産千代稲荷神社について

産千代稲荷神社
産千代稲荷神社は、長濱町二番地に鎮座せり。祭神倉稲魂命三穂津比賣命の二柱にして、古来安産の守護神なりと稱へ、参詣祈願する婦女多かり。さて安産後、御禮として、櫻の穉樹を奉納するの古例なりしかば、今日の如く境内狭隘ならざりし頃は、此の繁雑の魚市場中に、櫻花の爛漫たるを観たりといへり。(東京名所図会より)


常盤稲荷神社の周辺図