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長光院|我孫子市中峠にある曹洞宗寺院

長光院の概要

我孫子市中峠にある曹洞宗寺院の長光院は、円通山と号します。長光院は、千葉氏末裔の芝原城主河村出羽守勝融(法名祝融斎心岩永法大禅定門)が開基となり、正覚禅師(雪田真良和尚)が天文11年(1542)に開山したといいます。

長光院
長光院の概要
山号 円通山
院号 長光院
寺号 -
住所 我孫子市中峠1513-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長光院の縁起

長光院の創建年代は不詳ながら17世紀頃に長光庵と称して建立されていたといい。法岩院18世心牛牧宗和尚が明和9年(1772)に円通山長光院と称したといいます。

「我孫子市史」による長光院の縁起

当院の沿革について、『湖北村誌』には、「当山は法岩十八世心牛牧宗和尚明和九卯年(一七七二)六月法岩院を退き長光庵に隠栖し、堂宇を建立して円通山長光院と称す。爾来続て法岩院前住職の隠栖地となり遂に寺名を公称するに至れり」と記されている。これによると、長光院は明和九年の創立ということなるようであるが、文中にみえる「長光庵」というのは、このとき新たに建てたものではなく、すでに存在していたと解されよう。年代を約三十年さかのぼる元文五年(一七四〇)の「中峠村田畑社地不残大概書」にはすでに「法岩院末寺長光院」として「寺屋敷五反八畝四分、観音堂二間四面茅葺」と記されているので、長光院は十七世紀にさかのぼって存在し、そこに堂庵が営まれていたことが明らかである。そして、その堂庵は明和年代にも維持されていて、その庵室を「長光庵」と称したと解されるのである。
長光院は旧字大日にあり、その南西の地域は塚の越で、かつて中峠の十三塚が点在していたという。近年の発掘調査によって、その一帯は中世から近世にかけての集落共同墓地に比定されている。また、旧字大日の地域には、もと法照院の寺屋敷があったし、長光院に隣接する弥陀堂の一画にも堂庵があって、法照院が別当として管理していた。
長光院の境内には、寛文八年(一六六八)にさかのぼる年代の如意輪観音の舟形碑があって「二世安楽、念仏結衆」と刻まれており、元禄から元文年代にかけての沙弥・浄人(在俗で寺に住み雑事に従う者)の墓塔もある。それらによってみると、長光院もまた墓域に堂庵を営むようになった寺であったと考えられる。
法岩院の牧牛和尚は、その庵室(長光庵)に入庵隠栖し、堂宇を造立して長光院の発展につとめたのであろう。ついで、ここに住持した法岩院二十一世大通随処和尚は中興二世といわれ、同三世の浄林達禅和尚が在住した天明二年(一七八二)には新四国八十八カ所掛所及び坂東十七番移しの霊場として信仰されるようになり、以来法岩院の末寺として存続してきた。
ところが、嘉永五年(一八五二)八月に本堂と庫裏が罹災した。
そのため古記録や旧物を失ったが、台座の縁に「長光院」の刻銘のある銅鋳造の誕生釈迦仏一体が法岩院に保管されている。
それは、嘉永の火災に焼失をまぬがれたものであり、かつての長光院が釈迦の誕生会などの仏教行事を行っていたことを物語る遺品である。
嘉永の罹災以後、長光院は仮堂のまま推移したが、そのような状況の中で、明治維新前後のころには寺小屋が営まれていた。境内にみる「前永平当寺十世」及び同十一世の名を刻んだ筆子塔はその名残りである。
明治の「寺院明細帳」には、「本堂間数弐間四方、庫裏間数 間口四間半 奥行三間」とある。本堂というのは、旧来の観音堂に相当するもので、大正から昭和年代にかけて庫裏もあって堂守が住んでいたという。しかし、建物は老朽し、観音堂が新築されて今日に至っている。
観音堂は昭和五十年の改築になる入母屋造、向拝付の瓦葺堂で、木造観音菩薩立像一体と石造弘法大師像二体が安置されている。(「我孫子市史」より)


長光院の周辺図


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参考資料
  • 我孫子市史


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