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法岩院|我孫子市中峠にある曹洞宗寺院

法岩院の概要

我孫子市中峠にある曹洞宗寺院の法岩院は、祝融山と号します。法岩院は、千葉氏末裔の芝原城主河村出羽守勝融(法名祝融斎心岩永法大禅定門)が開基となり、正覚禅師(雪田真良和尚)が天文11年(1542)に開山したといいます。

法岩院
法岩院の概要
山号 祝融山
院号 法岩院
寺号 -
住所 我孫子市中峠1561
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



法岩院の縁起

法岩院は、千葉氏末裔の芝原城主河村出羽守勝融(法名祝融斎心岩永法大禅定門)が開基となり、正覚禅師(雪田真良和尚)が天文11年(1542)に開山したといいます。

「稿本千葉県誌」による法岩院の縁起

祝融山法厳寺
同郡同上(東葛飾郡舊南相馬郡)湖北村大字中峠字外谷津に在り、境内八百坪、曹洞宗なり、天文十一年七月中峠城主川村勝融出羽守之を創建し、僧真良正覺禅師を以て開山となす。寺に勝融の位牌あり、表に「祝融齋心岩永法師大禅定門」裏に「天文十五丙午六月中峠城主川村出羽守勝融」と記せり。(「稿本千葉県誌」より)

「我孫子市史」による法岩院の縁起

開山は、正覚禅師の勅諡号を賜った名僧雪田真良和尚、開基は千葉氏末裔の芝原城主河村出羽守勝融である。天文十一年(一五四二)七月二十日創立と伝え、堂宇は芝原城の南の亀田谷津をへだてた寺山台に営まれた。谷津には芝原と寺山台を結ぶ土手道が三本つくられ、西の土手道の延長は切通道となっている。
開基の法号は祝融斎心岩永法大禅定門で、没年が天文十丙午歳と墓誌に刻んであるが、天文十五年六月九日が正しいであろう。
また、開山は弘治元年(一五五五)五月十八日の遷化である。その後も河村氏の外護はつづいたと考えられ、「本土寺過去帳」によって一族の動静の一端がうかがわれる。
しかし、北条氏の麾下にあった河村氏は、天正十八年(一五九〇)の小田原落城にともなって在地領主たる地位を失い、芝原城も廃城となった。
近世になって、万治年中(一六五八~一六六一)に堂宇が罹災し、寛文年中(一六六一~一六七三)に再建された。元文五年(一七四〇)の中峠村の記録によれば、寺屋敷一町四反九畝六歩で相当広大な面積を占めていた。
元文元年(一七三六)に止住した十六世天然自暁和尚は、同四年に半鐘を造立し、「法器畧備」と記している。ついで延享四年(一七四七)には州開田和尚による梵鐘鋳造があった。
その梵鐘は戦時下に供出されて今はないが、『湖北村誌』に鐘銘が記録されていて、先住の天然和尚は堂宇の整備に尽力し、ようやく僧堂、庫院、方丈が整いつつあり、寛保四年(一七四四)に釈迦、伽藍祖師、開山像、韋駄天像などが奉安されたとある。このとき造立された諸尊像は今に伝えて当寺に安置されているが、開山像は旧本寺の正覚禅師の像を手本として造立したもので、右手に払子を持つなど、多少姿が変えてある。いま、修補して、仏壇背後の位牌壇に安置されているのがそれである。
寺山台の堂宇は再び罹災して、二十世越山和尚のとき、現在の地に移された。それが旧本堂で、昭和五十四年に改築されたとき大黒柱に記した「明和元年(一七六四)甲十二月吉日」の墨書が発見されているので、罹災による寺の移転と堂宇建立の年代はそのときとしてよいであろう。移転した法岩院は周囲に水田がひろがっているところから田寺と通称された。
明治の「寺院明細帳」には、「本堂間数 間口八間 奥行六間 庫裏間数 間口八間半 奥行五間半」と記されている。なお、境内仏堂三宇とあり、大師堂は明治十三年三月二十一日の再建で、「建物 間口六尺五寸 奥行五尺五寸」茶堂は安政五年(一八五八)三月十三日二十六世安山和尚代の造立で、「建物 間口五間 奥行三間」唐金の茶釜一口と石のかまどが花野井村吉田氏内伊代女の寄付、鐘楼堂は延享四年(一七四七)十一月檀徒一統の寄付となっている。
ここに記されている本堂は旧本堂で、大正二年に茅の葺替えが行われ、昭和三十六年に瓦葺となった。そして、それが同五十四年四月の改築で、入母屋造、向拝付、銅板葺の現本堂となったのである。
本堂は、前面と西側に廊下のある六室で、中央の仏間の奥を位牌の間としている。
本尊は釈迦如来で、仏壇の中央に安置され、左右に、祖師達磨大師と大権修理菩薩が配されているが、いずれも寛保四年(一七四四)に奉安されたもので、本尊は、本堂の改築を機会に修復された。
韋駄天像は、庫裡の玄関に安置してある。韋駄天走りということばがあるように足の速いことで知られる韋駄天は、もともとはインドのシバ神の子であるが、仏教にとり入れられて寺院の守護神となった。禅宗寺院の庫裡に祀る例が多く、甲胃姿で、合掌する手に宝棒を捧げているのが通例である。当院の像は寛保のときの造像で、嘉永四年(一八五一)に再興、その後一部損傷したのを修理して、いま右手に宝棒を構え持つ姿となっている。
境内には四間一棟の長屋形堂がある。その右の端の一間に祀られている弁財天像は、元文五年(一七四〇)の「中峠村田畑社地不残大概書」の「寺社方御除地」の項にあげてある弁財天で、当時は二間四面茅葺堂に祀られていた。そのお堂が老朽して廃され、いまここに安置されているわけである。像は、木造彩色、像高三五cmの女神の姿で、台座を失い、右肘先も欠けているが、もとは琵琶を抱えていたようにみえる。
つぎの一間は道了尊堂に宛てられている。道了尊は相模の最乗寺の守護神で、法岩院は最乗寺の輪番寺として深い関係があった。堂内にみる羽根団扇型灯明台は、天狗といわれる道了尊にちなむものである。道了尊は、もと妙覚といい、験力にすぐれた修験者であったという。曹洞宗総本山総持寺に住持した了庵慧明について得度し、のち慧明が故郷の相模に隠栖して、応氷元年(一三九四)に最乗寺建立を発願したとき、道了はその工を大いに助けた。そして、了庵が示寂するや、最乗寺を護持することを誓願し、虚空に舞い上がって天狗の姿をあらわしたとの伝説がある。
お堂の厨子には、一体の天狗の像が納めてある。ただし、それは右手に剣、左手に索を持ち、白狐にのって火焔の光背を負う天狗像で、実は静岡県秋葉山三尺坊の祭神飯綱権現である。たまたま、天狗の姿であるところから、道了尊像ということにして信者が奉納したのであろう。像は木造彩色、像高十cmの一刀彫風の小さな像で、台の裏に「布佐町三丁目大仏師細井慶忠作」の墨書がある。細井慶忠は、明治二十年に建立された緑大光寺旧大師堂の木鼻の獅子の作者であり、明治二十三年に古戸薬師堂にある不動明王像の修理も行った仏師であるから、この飯綱権現像もそのころのものである。
なお、長屋形のお堂の左の二間には、それぞれ、木造地蔵菩薩像と石造弘法大師像が安置してある。
大師堂は、入母屋造、向拝付、瓦葺で、軒下の棰が四面とも扇棰となっている点が珍しい。また、向拝部分の天井に七福神の彩色画が描かれており、「寄附、当村坂巻作右エ門、今井孫兵衛、花島宇左エ門」とある。さらに、扉わきや四面の小壁に波濤の彫刻があり、蟇股も波の形につくるなど、装飾に注目すべき点が多く、各部分に寄付あるいは施主の名が刻んである。明治の明細帳に、明治十三年の再建とあるが、堂内保存の棟札に大工棟梁は新木村田口常吉と記されている。(「我孫子市史」より)


法岩院の周辺図


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参考資料
  • 我孫子市史
  • 稿本千葉県誌


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