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延寿院|我孫子市寿にある真言宗豊山派寺院

延寿院の概要

我孫子市寿にある真言宗豊山派寺院の延寿院は、白花山と号します。延寿院の創建年代等は不詳ながら、古くより子之神大黒天社の別当寺だったといい、大正7年本町(我孫子駅南口付近)より子之神大黒天社の境内(当地)へ移転したといいます。子之神大黒天社は、行基菩薩が彫刻した大黒天像を下総国分寺に安置していたものの度々火災に罹災することから、宥啓阿闍梨が康保元年(964)甲子の年正月八日子ノ日に一宇を建立して安置したものだといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所38番(子之神)、43番(延寿院)、関東三十三観音霊場2番です。

延寿院
延寿院の概要
山号 白花山
院号 延寿院
寺号 -
住所 我孫子市寿2-27-10
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



延寿院の縁起

延寿院の創建年代等は不詳ながら、古くより子之神大黒天社の別当寺だったといい、大正7年本町(我孫子駅南口付近)より子之神大黒天社の境内(当地)へ移転したといいます。子之神大黒天社は、行基菩薩が彫刻した大黒天像を下総国分寺に安置していたものの度々火災に罹災することから、宥啓阿闍梨が康保元年(964)甲子の年正月八日子ノ日に一宇を建立して安置したものだといいます。

「我孫子市史」による延寿院の縁起

子之神延寿院 寿二ノ二七
延寿院山号白花山 真言宗豊山派
延寿院はもと我孫子宿の街道沿いにあった。現在の本町三ノ六付近である。それが大正七年に子之神大黒天社境内に移ったのである。
子之神大黒天略縁起の刷物によれば、行基菩薩が諸国国分寺巡錫の折りに下総国分寺で薬師如来と十二神将及び大黒天を刻んで安置したが、国分寺が度々火災の厄にあうので、尊像を各地に奉遷することとした。そして、「子大将神と大黒天の尊像は宥啓阿闍梨自ら笈に納めてこれを背負い、奉遷の地を求めて国内を巡行して諸方を遊歴して我孫子の里に杖をはこべば、三方に湖水を見下し松杉のそれにも増して厄除ひいらぎの霊木の群茂に阿闍梨は奇しき感応に随喜し当地を法化有縁の地と定め」て、康保元年(九六四)甲子の年正月八日子ノ日に一宇を建立したという。
のち、足腰の病に効験があるとの信仰がひろまり、参詣者で賑わうようになった。街道筋に今もたっている寛政元年(一七八九)及び同十二年造立の道しるべはそれを物語っており、『武江年表』に、安政三年(一八五六)三月十五日「同日より六十日間、深川永代寺にて下総国我孫子宿権現開帳(別当延寿院なり。日限半途にして止む)。」とみえるのも信仰普及のあらわれといえよう。
延寿院は、開山開基不詳であるが、信徒寄進の半鐘や鏧子が伝えられていて、特殊な信仰があったようである。古くから子之神の別当寺で、大正七年六月に子之神境内に移転したのであるが、同境内にはもと石造鳥居が建っていたし、今も子野大権現の石祠があって、神仏混淆の色彩が強い。
延寿院が移転して、仏堂を修築し参籠に供したが、堂は昭和四十五年に罹災した。そして翌年現本堂の改築をみた。
本堂は、七間、五間、入母屋造、銅板葺で、正面に千鳥破風があり、幅広い向拝がある。内部は広間形式で、奥を内陣としている。コンクリート建築で、昭和四十六年に落慶した。
本尊は不動明王で、他に厨子入木造彩色の子将神像及び厨子入のえびす、大黒天像その他の像がまつってある。
半鐘は、宝暦四年(一七五四)在銘で、笠の龍頭を中心として梵字が傘形に刻まれ、「下総国相馬郡我孫子町白花山延寿院現住秀伝代、施主肥前国長崎(以下連名)、法納大乗妙典六十六部供養也、江戸西村和泉守作」と記されている。
鏧子は、嘉永五年(一八五二)在銘で「我孫子邑延寿院現住舜胤代、七代目市川海老蔵、八代目市川団十郎(以下連名)、和音ニ付奉納之奉祈先祖供養子孫繁昌」とあり、名優の名がある点が注目される。
大師堂は、二棟ある。
四十三番予州明石寺写しの一棟は、もと延寿院の分で、切妻造、銅板葺、正面唐破風の向拝付である。
三十八番土佐金剛福寺写しの一棟は、もと子之神分で、昭和十三年の再建になる。切妻造、瓦葺、正面唐破風の向拝付である。(「我孫子市史」より)


延寿院所蔵の文化財

延寿院の位置する地から西方向数百mにかけて十四基の古墳が点在しているといい、いずれも6世紀に造られたものだといいます。

  • 子の神古墳群

子の神古墳群

子の神古墳群は手賀沼を見下す寿の台地に所在し、一基の前方後円墳と十三基の円墳からなる群集墳で、六世紀初頭から末にかけて造られたものである。
いずれも古墳も埴輪を持ち、市内でも代表的な古墳群である。(我孫子市教育委員会掲示より)

延寿院の周辺図

参考資料
  • 我孫子市史