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国分寺|市川市国分にある真言宗豊山派寺院

国分寺の概要

市川市国分にある真言宗豊山派寺院の国分寺は、国分山と号します。国分寺は、天平13年(741)の詔勅によると「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、この年には下総国の国分寺として当寺が建立されたといいます。其の後まで国分山金光明寺と称し、薬師堂の別当を勤めていたといい、慶安2年には江戸幕府より寺領15石の御朱印を拝領、明治22年に国分山国分寺と改称したといいます。市川七福神の毘沙門天、下総三十三ヶ所観音霊場結番です。国分寺

国分寺の概要
山号 国分山
閣号 -
寺号 国分寺
本尊 薬師如来像
住所 市川市国分3-20-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 市川七福神の毘沙門天



国分寺の縁起

国分寺は、天平13年(741)の詔勅によると「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、この年には下総国の国分寺として当寺が建立されたといいます。其の後まで国分山金光明寺と称し、薬師堂の別当を勤めていたといい、慶安2年には江戸幕府より寺領15石の御朱印を拝領、明治22年に国分山国分寺と改称したといいます。

「稿本千葉県誌」による国分寺の縁起

国分山国分寺
同郡同上(東葛飾郡)國分村大字國分字平川にあり、境内二千七十五坪、真言宗なり、天平中の創建にして僧行基を以て開山となす、本堂方六間、本尊薬師像を安置す、左に釋迦の座像、右に寳頭盧像あり、共に古雅にして剥落欠損す、聖武天皇の寄せ給ひし所なりと傳ふ。堂前に不動堂あり、前に銅錫杖を建つ、寛文八年七月大久保忠蔭甚兵衛の寄附せし所なり。左に鐘楼あり、方一間四尺鐘銘に云ふ、清和天皇の御宇権少豫貞世新鋳し、建長八年九月二十四日平氏(千葉氏なるべし)再鋳したり、今の鐘は寳暦三年三鋳せしものなりと。本寺古は今の地の西北字古堂にありしが、延元中火災に罹れり、礎石数枚今猶存し古瓦片山積し皆布紋あり。天正十三年二月三日小金城主高城胤則除地不入の書及び塔中十二坊に輿へたる書を蔵す、後僧榮海中興す。慶安二年八月徳川氏薬師堂領拾五石弐斗餘を付す。寛文二年四月堂宇を改造せしが、享保二年八月二日復た火災に罹り、住僧宥傳今の堂宇を建立せり、寺の南真間村に至る途に峻坂あり、持國坂と云ふ、古四天王の内持國天堂此の地に在りしと云ふ。(「稿本千葉県誌」より)

境内掲示による国分寺の縁起

国分寺は天平十三年(七四一)の詔勅に「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、中古より明治二十二年寺名改称迄当寺は国分山金光明寺と称し、現在は国分山国分寺と呼称す。
当山の南大門は天平創建当初は、現在位置より凡そ南方約二十米西方約七米の位置に建立されたものと推定される。(法隆寺式の伽藍配置のため)幾度かの火災に依り或る時代に現在の位置に移建されたものである。明治焼失の山門は宝暦年間勝快法印代に建立されたもので、江戸名所図会や古老の言に依ると楼門造の立派な山門であったことが判る。此の門は明治二十四年十一月の火難に焼失し、この時山門内に安置された仁王尊の阿形像は火中より救出され、吽形像は焼失す。
昭和四十九年大佛師法橋松久明琳氏に依り阿形像は復元、補修、吽形像は復元造像されたので、これを安置するため山門焼失後八十七年目に今回檀徒一同の浄財に依って国分山国分寺南大門として再建されたものである。(境内掲示より)


国分寺所蔵の文化財

  • 下総国国分僧寺跡(市川市指定有形文化財)

下総国国分僧寺跡

天平十三年(七四一)春、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、一国一寺の建立を指令されました。
下総国では、市川に国府がありましたので、ここに国分寺が建立されたのです。その建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。
国分僧寺は過去数回の火災をうけて当時のおもかげはありませんが、発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されています。(市川市教育委員会掲示より)


国分寺の周辺図


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