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葺不合神社|我孫子市新木の神社、沖田弁財天

葺不合神社の概要

葺不合神社は、我孫子市新木にある神社です。葺不合神社は、当地にあった厳島神社に、字宮前にあった村社葺不合神社、白山神社、三峰神社を明治39年(1906)合祀、鵜葺草葺不合尊を主祭神とする葺不合神社となったといいます。厳島神社は元暦3年(1186)の創建と伝えられ、沖田弁財天として著名だったといい、現拝殿に祀られていたといいます。一方字宮前の葺不合神社は、奈良期の創祀とも伝えられ、字宮前にあった社殿を合祀の際に遷して、現本殿となっているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所77番です。

葺不合神社
葺不合神社の概要
社号 葺不合神社
祭神 鵜葺草葺不合尊
相殿 市杵島比売命、日本武尊、白山比売命
境内社 -
住所 千葉県我孫子市新木1812
祭日 -
備考 旧村社



葺不合神社の由緒

葺不合神社は、当地にあった厳島神社に、字宮前にあった村社葺不合神社、白山神社、三峰神社を明治39年(1906)合祀、鵜葺草葺不合尊を主祭神とする葺不合神社となったといいます。厳島神社は元暦3年(1186)の創建と伝えられ、沖田弁財天として著名だったといい、現拝殿に祀られていたといいます。一方字宮前の葺不合神社は、奈良期の創祀とも伝えられ、字宮前にあった社殿を合祀の際に遷して、現本殿となっているといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所76番です。

「我孫子市史」による葺不合神社の由緒

葺不合神社(新木一八一一)
主祭神 鵜葺草葺不合尊
合祭神 市杵島比売命 日本武尊 白山比売命
当社は、鵜葺草葺不合尊を祭神とする例の稀な神社である。もと五郎地の明神の森に鎮座していて沖田神社と称されていた。祭神から考えてみると、このあたりまで海が浸蝕していた古代に海を渡ってきた人びとによって草創されたものかもしれないという見解もある。
当所は、もと厳島神社の境内地で、『湖北村誌』には「元暦三年(一一八六、文治二年に相当する)の創建に係ると伝へらる竹内無格社厳島神社」とあり、平安時代末期に市杵島比売命がまつられていた。参道は低地に向って下り、そこに水の湧く池があって、後背部が高い傾斜地になっている。その高いところに弁天堂(現在の拝殿)が建立されたのは、明和年代のことで、明和元年(一七六四)の「弁天堂奉加帳」があり、いまみる建物はその年代とみるにふさわしい。こうして、厳島神社は柏市の布施弁天とならぶ弁天の信抑で発展した。
相馬霊場の設立は、安永五年(一七七六)で、第七十七番讃岐道隆寺写しとされ、本尊は聖観世音となっている。
明治の「神社明細帳」には、無格社厳島神社として、「社殿間数 間口四間 奥行四間三尺」と記されている。奥行は向拝部を含む長さであろう。
ここが葺不合神社となったのは、明治三十九年の神社合祀令によるのであって、明細帳には、村社葺不合神社と訂正し、四十一年に字宮前の村社葺不合神社及び同字の三嶋神社をここに合祀し、祭神に鵜葺草葺不合尊、白山比売命及び日本武尊が加えられた。その経緯について、社掌千浜宗輔撰文の合祀記念碑には「此度村社なる葺不合神社を始め白山神社三峰神社を清く風致よき厳島神社に移し合せ祀りぬ」と記してある。
鳥居は、一の鳥居が昭和八年の再建、明治十五年銘の二の鳥居は、旧在地五郎地から移されたもので、ともに石造明神鳥居である。
葺不合神社の移遷に際しては、再建されて間もなかった本殿が旧在の五郎地から数百mの距離を曳かれてきたという。
本殿は、方一間、流造の正面に千鳥破風があり、向拝前面を唐破風とする瓦葺である。身舎の正側面には高欄つきの縁があり、正面の扉、側背面の板壁、脇障子、縁床下、向拝のまわりが神話や瑞象の図様彫刻で飾られている。
明治三十年二月の建立で、大工新木村田口末吉、木挽根本米吉、彫刻師後藤藤太郎(北相馬郡北方住)と知られ、木挽の名もあげられているのは地元の樹木を伐って用材としたことを思わせる。建物は覆屋根をかけ、透塀で囲って保護されている。
拝殿は、本殿の前方傾斜地の中腹に建っている。これが旧厳島神社の弁天堂で、方三間、入母屋造、向拝付の建物である。屋根は、もとの茅葺の形をそのまま銅板で包みこんである。軸部の円柱は太くたくましく、柱間三間の前一間通りは建具を取りはらって吹放ちとし、後部の左右の間に厳島の神と御嶽社を配し、中央間を半蔀として、後方の本殿を拝することができるようになっている。
身舎の周壁をみると、正面中央の壁に天女の舞姿らしい彩色画があり、各間の小壁から支輪の部分にかけて草花鳥獣の彫刻を配して彩色をほどこし、向拝柱に麻の葉文を刻み、虹梁、木鼻にも手のこんだ彫刻があって、弁天堂にふさわしく華やかである。
境内にはおこもり堂があって、脇の間に仏像数体が保存されている。その中に甲胄姿の武神坐像がある。両腕と膝の部分が欠損しているが、眉をつり上げ、口元を強く結び、右腕を振り上げていたらしいところなど、根戸妙蓮寺の妙見尊とよく似ており、これも、明治の廃仏毀釈で流出したものと考えられる。ただし、由緒や伝来については明らかでない。
大師堂は、方一間、向拝付、切妻造、瓦葺で、昭和四年の再建、堂内安置の石造大師像は文化四年(一八〇七)の造立である。(「我孫子市史」より)

境内石碑による葺不合神社の由緒

古来より、沖田村の弁天様と崇敬されているのは、この拝殿のことである。
この拝殿は元々独立した神社で、祭神は市杵島比売命(弁財天)が、祀られ創祀は文治二年と言われている。
現在の社殿は明和二年(一七六五)に弁天堂として造営され、その後、明治元年(一八六八)の神仏分離政策により、厳島神社と、改名された。
葺不合神社本殿は元来字宮前の地にあり、創祀は奈良期に遡るとされ、沖田の産土神として親しまれてきた。明治三十年に再建されたあと明治三九年(一九〇六)の一村一社の令により、字宮前より字竹ノ内のこの地に、三峯、白山等の神社と共に合祀され、これを機に主祭神を鵜葺草葺不合尊とした。この時に拝殿堂内の八臂弁財天を右の間に遷し、葺不合神社本殿を拝せるように中央正面を観音開きとした。
爾来、二四〇年近くの風雪に耐えた拝殿は、近年痛み甚だしく、氏子一同深く憂慮していた処、新木駅南側土地区画整理事業の際に提供した明神田の協力金を以て改修の基金とする事を氏子中に諮って、賛同を得る事が出来、機運が昂揚し、改修を決定した。
改修は、これ迄、昭和四十七年に茅葺き屋根に鉄板覆いとしてあったものを今回銅板葺きとし、床下は玉石じんぎょの間をコンクリートで固め、回廊下を布基礎とした。その他の修理や付帯工事も実施し、資金の不足は浄財を募り事業を完工した。(境内石碑より)

我孫子市教育委員会掲示による葺不合神社の由緒

葺不合神社は、国道三五六号線(旧成田街道、旧水戸道中)の北側の起伏に富んだ場所に設けられています。神社境内には湧き水を集めた弁天池があり、江戸期には弁天堂に市杵島比売命(弁才天)が祀られ「沖田の弁天さま」として賑わったと伝えられます。現在の拝殿は江戸期の弁天堂で、明和二(一七六五)年の棟札が見つかっています。明治には厳島神社と改名しました。明治三九(一九〇六)年以降進められた神社合祀政策によって、東北約三〇〇メートル(新木近隣センター付近)にあった葺不合神社と二の鳥居がこの地に移築され、元の葺不合神社を本殿、厳島神社本殿を拝殿として「葺不合神社」と改称し、現在に至っています。
拝殿は方三間の入母屋造で、正面に一間の向拝を設けています。明治時代に背面に格子扉を設けて神社としていますが、長押より上に施された獏や唐獅子などの装飾彫刻は江戸時代中期の仏堂の特徴を示しています。なお内陣正面には天女を描いた華やかな彩色画が伝えられています(盤面の彩色は剥落が顕著でしたが、残っていた塗料をもとに復元されたものです)。
本殿は明治三十(一八九七)年に建築されたもので、一間社流造の小振りな社殿ながら全体に豊かな装飾彫刻が施されます。胴羽目彫刻は八岐大蛇、天岩戸など神話を題材としますが、脇障子には明治時代の軍人も認められます。この彫刻は江戸以来の彫物大工の系譜を受け継ぐ二代目後藤藤太郎(竜ヶ崎住、文久元年〜昭和六年)の手によるものです。藤太郎は利根川流域で彫物大工として活躍し、我孫子市内では長福寺大師堂(下新木)、正泉寺本堂(湖北台)、延命寺虚空蔵堂(布佐)で彫刻を手がけています。
葺不合神社は下新木地区の氏子、住民により大切に維持管理されて今日に伝えられてきました。本殿、拝殿、二の鳥居は平成二十四年三月に我孫子市指定文化財となっています。(我孫子市教育委員会掲示より)


葺不合神社所蔵の文化財

  • 葺不合神社本殿、拝殿、二の鳥居(我孫子市指定文化財)

葺不合神社の周辺図

参考資料
  • 我孫子市史