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勝専寺|足立区千住にある浄土宗寺院

勝専寺の概要

浄土宗寺院の勝専寺は、三宮神山大鷲院と号します。勝専寺は、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260)草創されたといいます。勝専寺の木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされています。

勝専寺
三宮神山勝専寺の概要
山号 三宮神山
院号 大鷲院
寺号 勝専寺
住所 足立区千住2-11
本尊 阿弥陀如来
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 勝専寺赤門会館で葬儀利用可能
備考 -



勝専寺の縁起

勝専寺は、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260)草創されたといいます。江戸時代には日光社参に際して将軍の御旅所になっていたといいます。

足立区教育委員会掲示による勝専寺の縁起

「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260)勝専社専阿上人を開山、新井政勝を開基とし草創されたという。
江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川家忠・家光・家綱の利用があった。また日光門主等の本陣御用を勤めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。
加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。
ほかに1月と7月の15・16日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治12年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。(足立区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による勝専寺の縁起

勝専寺
浄土宗、江戸駒込蓮光寺末、三宮神山大鷲院と號す、古は常行院といへり、文応元年草創の古刹にして、開基を新井兵部政勝と云、開山勝蓮社専阿寺傳に云、此僧は當國の住人甘粕太郎忠綱の三男にして、父忠綱建久年中日吉八王子の陣に討死せしにより、父の追福の為に出家し、源空上人の弟子となり、時に専阿十三歳なり、其後當寺を開きて弘安六年三月八日百五歳にして寂せりと云、按に浄土傳燈系譜に、辯阿上人の弟子に専阿といへる人あり、辯阿は源空上人の弟子なりといへば、此人源空にも従ひしと見えたり、ここに云所は此専阿なるにや、本尊弥陀安阿弥の作なり、傍に立像七寸五分の千手観音を置、開基兵部が父図書政次が、水底より得しと云もの是なりと云。此政次は鎌倉頼朝に仕へ、建仁元年所領を捨て當所に蟄居せしと云傳ふ、按に図書政次嘉暦二年に水底より観音を得しといへば、建仁より嘉暦に至まで年を歴こと百二十年なれば、傳の誤あるべし、又其子孫は久しく當所にありて、寛文年中断絶せしとなり。
鐘楼。安永年中の鐘をかく。
稲荷社。辨天を合祀し、又社内に不動の像を安ず。
閻魔堂。
御殿跡。本堂の南にあり、この地は昔新井政勝が住せし所なり、後遥の星霜をへて大猷院殿の御代に、御茶屋を設けられしを、慶安二年厳有院殿日光御社参の時、御殿を御造営ありて御旅館となりしが、折節荒川満水せしにより、三日まで御滞留あり、其頃は年々金百両米百俵を賜ひて修造の料に充られしが、延宝八年大風の為に御殿廃壊せしにより、御座所の跡のみ土をもり上て存せしが、それも近来は陸田となれり、又境内の構堀を御馬屋堀と云、其故は昔大猷院殿御経歴の時、堀にて御馬のすそをせしことありし故、かく呼べりとぞ、土人腰より下の煩ふるもの祈願すれば必験ありとて、近き頃其傍に馬頭観音の石像を建り。(新編武蔵風土記稿より)

足立風土記史料による勝専寺の縁起

蓮光寺末 東京府管轄武蔵国足立郡千住宿三宮神山勝専寺
文応元年8月15日起立、開祖宗祖円光大師弟子専阿宗公、俗姓甘糟太良忠綱三男、23年住職、弘安6年3月8日105歳にて命終。
第29世看住職了眼壬申31歳。額田県管轄三河国額田郡岡崎能見町農広瀬兼蔵三男、嘉永5年2月10日、同国賀茂郡牛野村心学院ニ於テ得度、安政6年10月15日、東京芝増上寺ヘ入寺修学、明治4年3月朔日看住職。以上僧一人。
境内5反4畝14歩御年貢地。
檀家111軒。


勝専寺所蔵の文化財

  • 木造千手観音立像(足立区登録文化財)
  • 木像閻魔大王坐像(足立区登録文化財)
  • 三宮神山扁額(足立区登録文化財)
  • 高橋繁右衛門の冑付具足(足立区登録文化財)

勝専寺の周辺図


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