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蓮光寺|文京区向丘にある浄土宗寺院、戸田采女正開基、大垣藩戸田家墓所

蓮光寺の概要

浄土宗寺院の蓮光寺は、金池山功徳院と号します。教蓮社尊誉上人露宿玄的大和尚(開基当戸田采女正厳高祖左門一西の三男)が開山、戸田采女正(法号正眼院殿法誉道心居士)が開基となり、慶長6年(1602年)湯島に創建、明暦の大火で罹災したため当地へ移転したといいます。大垣藩主戸田家の墓所となっていた他、北方探検家の最上徳内、儒学者平野金華の墓があります。

蓮光寺
蓮光寺の概要
山号 金池山
院号 功徳院
寺号 蓮光寺
住所 文京区向丘2-38-3
本尊 木造阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



蓮光寺の縁起

蓮光寺は、教蓮社尊誉上人露宿玄的大和尚(開基当戸田采女正厳高祖左門一西の三男)が開山、戸田采女正(法号正眼院殿法誉道心居士)が開基となり、慶長6年(1602年)湯島に創建、明暦の大火で罹災したため当地へ移転したといいます。開山の尊誉上人は、川越蓮馨寺の住職を務めた後本山知恩院へ転住、長教寺を創建したといいます。当時は、大垣藩主戸田家の墓所となっていた他、北方探検家の最上徳内、儒学者平野金華の墓があります。

「本郷區史」による蓮光寺の縁起

蓮光寺
駒込蓬莱町に在り智恩院末、金池山功徳院と稱す、慶長六年尊譽立的を開山として玄的の父戸田左門一西の湯島妻戀坂に開ける處で明暦大火後現地に移つた。戸田家累代の菩提寺で、戯文を以て知られたる戸田欽堂(明治廿三年歿、四十一)の墓もある。外に平野金華(名は玄中字は子和通稱源右衛門、陸奥の人守山侯の儒者となる、享保七年歿、四十五)堅卓上人(綱吉時代参照)最上徳内(通史家斉時代参照)山口駿河神直亮(江戸南町奉行明治二十八年歿六十六)の墓がある。(「本郷區史」より)

御府内寺社備考による蓮光寺の縁起

京都知恩院末 駒込不唱小名
金池山功徳院蓮光寺、境内拝領地2918坪余
当寺者慶長6辛丑年開山尊誉玄的大和尚由緒有之酒井雅楽頭様乃取持ち於湯島妻恋ニ於て南北66間2尺東西44間余此坪数2918坪余拝領候処明暦3丁酉年右寺地類焼ニ付御用地ニ被召上、為替地於当所右坪数拝領仕、仰付候。
往古入池山ト申候処替地相当後金池山と称来り候。
開山教蓮社尊誉上人露宿玄的大和尚寛永15戌寅年7月27日遷化俗称当戸田采女正厳高祖左門一西殿三男川越にて出生し由ニ御座候依 台命川越蓮馨寺住職候 仰付又は依 台命京都本山知恩寺に転住被仰付知恩寺三十五代及先年上京天神之図子扇町大興寺と申禅寺之地内を借り庵室を結ひ隠居致も其節所司代板倉周防守殿子息江致死去道誉於宅葬之其後此庵所一寺ニ取立長教寺と申智恵寺末寺と相成長教寺より再勢州山田清雲院開基行年七十余にて遷化。
開基戸田采女正法号正眼院殿法誉道心居士慶長8卯年7月25日卒ス一西ト号ス。
本堂、間口8間奥行8間半。
本尊阿弥陀如来、木坐像丈3尺行基作。
観音勢至二菩薩、木立像2尺8寸。
阿弥陀如来、木立像1尺9寸恵心僧都作。
鐘一口。右者銘文無之。武州湯島金池山第五世沙門松蓮社貞誉大誓代惟時慶安5壬辰3月25日。
鎮守社、土蔵造1間四方。拝殿、間口2間奥行9尺。妻恋稲荷大明神、神体木像丈2寸8分。
寺寶。
開山影像、開運厄除自作開眼木座像丈1尺5寸。
宇賀神、開山上人感得之由。
火防樒之杖、長5尺。開山上人秋葉権現感得。
開山真筆宗祖円光大師勅賜御傳六巻。
同筆自画辞世之和歌。
六字名号、同筆2幅。
幡随上人直筆名号1幅。
随波上人筆名号2幅。
同筆額1枚。
祐天大僧正筆名号1幅。
恵心僧都筆三尊1幅。
不動尊立像丈1尺5寸当時内佛ニ安置元別堂ニ有り、右ハ智法大師之作也。
延命地蔵尊、立像丈1尺3寸弘法大師作。
寺中2ヶ院。
専称院、坪数44坪半。
右開基慶長16辛亥年7月25日当戸田采女正殿高祖左門一西奥方建立。
法名専称院殿栄誉花岳貞春大姉。元禄2辰年2月29日死去。
客殿、本尊三尊佛。
天誓院、坪数44坪余。
開基寛文元辛丑年3月当時松平与之助高祖松平右衛門大夫正綱奥方建立当山五代目貞誉天誓上人。右奥方ト兄弟ニ付天誓上人隠居所ヲ建立有之貞誉上人為、開山寛文4辰年5月19日遷化。
開山法名松蓮社貞誉上人十阿天誓和尚。
開基法名宗学院殿徳誉寿清大禅定尼延宝7未年正月3日死去。
客殿。
庚申石塔、幅1尺丈2尺5寸、正安3年8月日。本尊三尊佛。
文荘先生墓。右南郭銘有之俗称平野源右衛門又玄沖金華先生ト称ス。
以上丙戌書上。(御府内寺社備考より)

東京名所図会による蓮光寺の縁起

同(駒込蓬莱町)六十六番地にあり、金地山と號す、功徳院、浄土宗京都知恩院末なり。開基は戸田采女正(法名正眼院)にして開山は尊譽玄的(寛永五年寂)とす、慶長六年湯島妻戀坂に創建し、明暦災後今の地に移る、もと寺中あり、天誓院といひ、専稱院といふ、廃院となる、當寺行基作と稱する阿弥陀如来を本尊とす。(東京名所図会より)


蓮光寺所蔵の文化財

  • 最上徳内墓(東京都指定旧跡)
  • 平野金華墓(東京都指定旧跡)
  • 旧大垣藩主戸田家墓

最上徳内墓

江戸時代後期の北方探検家で、宝暦5年(1755)出羽国村山郡楯岡村(山形県村上市)に生まれた。天明元年(1781)江戸に出て官医山田宗俊の家僕となった。同3年(1783)本田利明の音羽塾に入って、天文・測量・地理・航海を学んだ。天明5年(1785)蝦夷地巡検使に従者として蝦夷沿岸を巡視、翌6年(1786)択捉島に上陸、さらに日本人として初めて単身得撫島に上陸した。寛政3年(1791)、同4年にも千島・樺太の探検を重ねた。寛政10年(1798)には近藤重蔵らと共に択捉島に「大日本恵登呂府、寛政10年戌午7月、重蔵徳内以下十五人記名」の標柱をたてる。
文政9年(1826)シーボルトを訪問。「日本北方に関する稀なる蘊蓄深き学者」と評される。天保7年(1836)9月5日83歳で歿した。(東京都教育委員会掲示より)

平野金華墓

江戸時代中期の儒学者で、名は玄沖、字は子和、金華は号で通称源右衛門といった。元禄元年(1688)陸奥で生まれた。幼い時に孤児となり、親族の計らいで江戸に上り、荻生徂徠に就いて古文辞学を学んだ。生活に追われ書籍を買うことも出来ず、書架には「左伝」「礼記」「荘子」「通鑑」の抄書など数巻あるだけであったが、文章を縦横に駆使し、人びとを驚かせた。陸奥守山藩の藩儒となった後も、端午の節句に新服を着るよう主君の命令があり、薄給のため妻の着物を着て出仕し、即日俸米を加増されたという。享保17年(1732)7月23日45歳で死去した。著書に「金華雑譚」「酈陽遺編」「古学範」などがあり、藩主松平頼寛(黄龍)は、自ら「金華稿冊」を編纂した。謚を文荘先生という。(東京都教育委員会掲示より)

蓮光寺の周辺図



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