篠岡八幡大神社。さいたま市岩槻区笹久保の神社

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篠岡八幡大神社。国指定無形民俗文化財の古式土俵入り

篠岡八幡大神社の概要

篠岡八幡大神社は、さいたま市岩槻区笹久保にある神社です。篠岡八幡大神社の創建年代は不詳ながら、源義家が永承年中(1046-1053)に奥羽征討の途中、笹の生い茂る窪地に軍扇を奉鎮して武運長久を祈願、笹久保では軍扇、尾ケ崎(尾ヶ崎八幡神社)ではその桑の木の株を神体として八幡神を祀ったと伝えられます。笹久保の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治45年稲荷神社を合祀しています。歴代の岩槻城主より崇敬を受けて社殿の修復がなされ、笹久保の鎮守として祀られ、戦時中には、鶴岡八幡宮富岡八幡宮と共に「三岡八幡宮」と称されたといいます。当社祭礼で奉納される岩槻の古式土俵入りは、国重要無形民俗文化財に指定されています。

篠岡八幡大神社
篠岡八幡大神社の概要
社号 篠岡八幡大神社
祭神 応神天皇、倉稲魂命
相殿 -
境内社 天満宮、第六天
住所 さいたま市岩槻区笹久保810
祭日 辻祈禱7月7日、宮薙7月13日、例祭9月15日
備考 -



篠岡八幡大神社の由緒

篠岡八幡大神社の創建年代は不詳ながら、源義家が永承年中(1046-1053)に奥羽征討の途中、笹の生い茂る窪地に軍扇を奉鎮して武運長久を祈願、笹久保では軍扇、尾ケ崎(尾ヶ崎八幡神社)ではその桑の木の株を神体として八幡神を祀ったと伝えられます。笹久保の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して明治6年村社に列格、明治45年稲荷神社を合祀しています。歴代の岩槻城主より崇敬を受けて社殿の修復がなされ、笹久保の鎮守として祀られ、戦時中には、鶴岡八幡宮富岡八幡宮と共に「三岡八幡宮」と称されたといいます。

新編武蔵風土記稿による篠岡八幡大神社の由緒

(笹久保村)
八幡社
村内の鎮守なり、村民の持、
末社。風神、雷神、稲荷
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威徳院
慶徳山福生寺と號す。本尊は不動を安ず、
阿彌陀堂(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による篠岡八幡大神社の由緒

篠岡八幡大神社<岩槻市笹久保八一〇(笹久保字相野谷)>
笹久保の地は、古くは大和田と呼ばれたが、永承年間(一〇四六-五三)に源義家が奥羽征伐に向かう途中、この地に陣を張った際、笹の生い茂った窪地に軍扇を鎮め祀り、八幡神を勧請して武運長久を祈願したため、後に笹久保と呼ばれるようになったと伝えている。
下って長禄元年(一四五七)、太田道灌が岩槻城を築いてからは、代々の城主がこの由緒ある八幡様を城鎮護・武運長久の神として信仰し、しばしば再興・修復が図られた。しかし、寛文八年(一六六八)に火災に遭い、社殿・祈願所共に消失し、古記録のすべてが灰燼に帰してしまった。現在残っている一一枚の棟札はいずれもその後に納められたもので、最も古い寛文十二年(一六七二)の棟札によれば、この年、岩槻城主安部対馬守が大檀那となり、「雨屋本地殿并小宮三社」が修造されたことがわかる。その後の棟札は、延宝七年(一六七九)、貞享四年(一六八七)、元禄九年(一六九六)、同十四年(一七〇一)、宝永五年(一七〇八)、正徳五年(一七一五)、享保十三年(一七二八)、同二十年(一七三五)、寛延二年(一七四九)、文久三年(一八六三)と続き、文久三年のものを除き、いずれも大檀那として時の城主の名が見え、「国家豊楽武運長久」が祈られており、江戸期を通じて、歴代の城主から崇敬が寄せられていたことをうかがわせる。
また、いずれの棟札にも別当として威徳院の名が見える。この威徳院は、元禄十年(一六九七)の「笹久保絵図」(安藤富治家所蔵)によれば、除地に当社と並んでその本堂が建っていたことがわかる。同寺は真言宗で、尾ヶ崎村勝軍寺の末寺であり、不動明王を本尊としていた。
当社は『風土記稿』笹久保村の項に「八幡社 村内の鎮守なり、村民の持、末社 風神 雷神 稲荷」と記されている。先の寛文十二年の棟札に見える「小宮三社」がこの風神・雷神・稲荷を示すものと思われる。
神仏分離により別当の威徳院から離れた当社は、明治六年に村社となった。また、地内の善念寺の境内にあった天神社を神仏分離により当社境内に移し、他の末社と共に祀るようになった。一方、威徳院は檀家がなかったために、明治四年に廃寺となり、その本堂は当社の社務所として利用されるようになった。その後の祀職は、いずれも地元の遊馬家・安藤家が務め、更に宮町の馬場家が継いで、現在に至っている。
なお、当社で行われる古式子供土俵入りには、天から軍配が降ってきたという伝説があり、この軍配が本殿に奉安されていたが、いつのころか所在が不明となった。また、本殿の御扉の金具は軍配の形をしており、この伝説にちなんで作られたことをうかがわせる。(「埼玉の神社」より)


篠岡八幡大神社の由緒

  • 岩槻の古式土俵入り(国指定重要無形民俗文化財)

岩槻の古式土俵入り

地区の公民館で、褌と「祭」の文字が刺繍された化粧まわしの支度を整えた子どもたちは、赤地の襦袢を羽織り、行司などの役員とともに神社まで行列を組んで向かいます。神社に着くと、拝殿前でお祓いを受け、土俵に向かい、近くまで進むと、行司の軍配を合図に襦袢を脱ぎ捨て土俵に入ります。土俵上での式典が終了すると、いよいよ土俵入りとなります。拍子木を合図に、「小役」と「小役」以外の年長者の2組がそれぞれ土俵入りを行い餡巣。次に「手合」が2人一組、計4回の土俵入りと8人全員での土俵入りが行われます。その後、行司による祭文が唱えられ、「亀能」の土俵入りとなります。土俵の入退場の際は、右手の掌を外に向けて額にあて、左手を後ろに回し、一足ごとに左右の手の位置を交互に変えて歩く「ヤッコ」を踏みます。(文化庁・埼玉県教育委員会・さいたま市教育委員会掲示より)

篠岡八幡大神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)