龍泉寺。横浜市鶴見区岸谷にある高野山真言宗寺院

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生麦山龍泉寺。東海三十三観音霊場、玉川八十八ヶ所霊場、東国八十八ヵ所霊場

龍泉寺の概要

高野山真言宗寺院の龍泉寺は、生麦山無動院と号します。龍泉寺の創建年代等は不詳ながら、龍泉寺二世本誉文覚が永正7年(1510)に入寂、第十世一智本覚が元亀2年(1571)に入寂といい、また過去帳にも明応3年(1494)前後の記録が残されていたことから1500年前後に浄土宗寺院として創建したものと推定されます。江戸期には岸谷杉山神社の別当を勤めていました。東海三十三観音霊場8番、玉川八十八ヶ所霊場9番、東国八十八ヵ所霊場15番です。

龍泉寺
龍泉寺の概要
山号 生麦山
院号 無動院
寺号 龍泉寺
住所 横浜市鶴見区岸谷4-3-2
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



龍泉寺の縁起

龍泉寺の創建年代等は不詳ながら、龍泉寺二世本誉文覚が永正7年(1510)に入寂、第十世一智本覚が元亀2年(1571)に入寂といい、また過去帳にも明応3年(1494)前後の記録が残されていたことから1500年前後に浄土宗寺院として創建したものと推定されます。江戸期には岸谷杉山神社の別当を勤めていました。

新編武蔵風土記稿による龍泉寺の縁起

龍泉寺
海道の西の方にあり。古義真言宗同郡鳥山村三會寺末にて生麦山無動院と号す。開山詳ならず。二世は本誉文覚永正7年11月朔日寂す。この余にも第10世一智本覚元亀2年9月23日示寂すなどいへば、この頃までも浄土宗なりしにや。されど寺僧はこのことを云はず。客殿8間半に6間半巽向、本尊不動立像長3尺ばかりなるを安置す。過去帳に春岳正晴信士明応3年3月23日生麦太郎兵衛姉聟とあり。此余同じ頃の人を載す。明応は永正と同時なればもし此人など基を開きしにや。
杉山明神神輿堂。境内右の方にあり。9尺に2間。此寺杉山明神の別当にて、すでに前に出せる本地佛の字字書たるものおよび棟札等を爰に蔵す。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿佛寺編」による龍泉寺の縁起

龍泉寺
位置
龍泉寺は、生麥山聖無動院と號し、鶴見區生麥町一千五百七番地に在る。境内は四百八十六坪。官有地。神奈川區鳥山町三會寺末で、寺格は十七等、東海觀音靈場三十三番の第八番、弘法大師玉川八十八箇所靈場の第九番である。
沿革
草創の年代竝に開山・開基等は不明である。二世は本譽文覺 永正七年十一月朔日寂。十世は一智本譽 元龜二年九月二十三日寂。と云ひ、住古は淨土宗の寺院であつたところ、いつの頃にか衰退し、眞言の僧が住持して、今の宗旨に改めたと云ふ。その創建の年代も偲ばれると思ふ。德川時代、火災に罹り、堂宇の再建をしたと傅ふるが、これまた 年月が詳かではない。維新前は鎭守、杉山社の別當を兼ねて居た。明治初年より住僧もなく荒廢に任せて在つたが、明治四十年三月、壽山良海が入つて住職となり、堂宇を修覆し、寺門の興隆をはかつたので、法燈も次第に輝いたが、圖らずも大正十二年九月一日の震災に遇ひ、堂宇の大破を生ずるに至つた。併し良海の努力は、昭和二年、早くも本堂・庫裡の再建を完成せしめた。因に、良海は境内に淨化窟を建設し、社會淨化に盡したので、世人は俗に淨化の寺と呼んで居る。
本尊
本尊は開運不動明王の立像、高三尺、行基と傳へられてゐる。往昔は村内瀧坂不動堂に安置してあつたが、當寺の眞言宗に改宗した際、移して本尊としたものと云ふ。
堂宇
今の堂宇は本堂 桁行七間、梁間六間、方形造、亞沿葺。・庫裡 桁行七間半、梁間七間、亞沿葺。・山門 菅家筆道二十六世朝日觀賀の筆、生麥山の扁額を掲ぐ。等である。(「横浜市史稿佛寺編」より)


龍泉寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿