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猫の足あと

金剛寺。横浜市鶴見区市場下町にある真言宗智山派寺院

金剛寺の概要

真言宗智山派寺院の金剛寺は、光明山遍照院と号します。金剛寺の創建年代等は不詳ながら、嵯峨天皇(809-823)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったといいます。寛永年間(1624-1645)に秀尊(明暦2年寂)が中興、金剛寺と称していましたが、江戸時代末期に院号遍照院を通称としていたといいます。玉川八十八ヶ所霊場11番、東海三十三観音霊場9番、東国八十八ヵ所霊場10番です。

金剛寺
金剛寺の概要
山号 光明山
院号 遍照院
寺号 金剛寺
住所 横浜市鶴見区市場下町6-33
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



金剛寺の縁起

金剛寺の創建年代等は不詳ながら、嵯峨天皇(809-823)の代に尊慶法印が草創、熊野神社の別当を勤めてきたともいい、かつては市場村内の金剛寺畑と称される場所にあったといいます。寛永年間(1624-1645)に秀尊(明暦2年寂)が中興、金剛寺と称していましたが、江戸時代末期に院号遍照院を通称としていたといいます。

新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起

(市場村)遍照院
村の西海道より西北の方へ十八間退てあり、光明山金剛寺と號す、新義真言宗神奈川宿金蔵院末、開山及び起立の年暦を傳へず、中興開山は秀尊と云、此人明暦二年六月六日寂、當寺古は寺號のみ稱せしが、近頃避ることありて院號を唱へりと、又昔は村の西方に住して今その地を金剛寺畑といへりと、今の地へ移りし年代は傳へざれど、是も恐くは東海道轉移ありしより後のことなるべし、客殿は六間に六間半本尊大日を安置す。
鐘楼。境内に入て左の方にあり、文化八年改め鋳し鐘にて銘文あれども考證に益なければ略す。
観音堂。鐘楼の側にあり、如意輪観音を安置す。
薬師堂。境内にあり九尺四方。
稲荷社。観音堂の並にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による金剛寺の縁起

金剛寺
位置
金剛寺は、光明山遍照院と號し、鶴見區市場町一千二百十七番地に在る。境内は一千五十四坪。官有地。神奈川町金藏院末、寺格九等地。東海三十三所觀音靈場の第九番礼所、多摩川八十八箇所靈場の第十一番礼所である。
沿革
寺傳に據れば、當寺は嵯峨天皇の御字に、法印尊慶の草創した所と云ふ。古來、同所鎭守熊野權現の別當寺で在つて、源賴朝時代に再興し、本尊大日供免、竝に熊野權現兩所免として、三十貫目の寄進地を有した。後、上杉景虎小田原攻の時、兵火に燒かれ、傳來の舊記・證文等を失ふに至つたと云ふ。其後、北条氏直の旗下太田越前守が當所を領した際、古例に依つて、大日免・鎭守免として三十石の證文を附與した。德川氏に至り、代官伊奈熊藏地檢地の際、大日・熊野兩所免として、十石を御繩除とされた。寛永の頃、秀尊なる僧が、其古蹟の荒廢を嘆いて、古來同の所天神前にあつた境地を、今の地に移して再建したので、秀尊法印 明曆二年六月六日示寂。を以て、當寺中興の開山として居るが爾來、法燈連綿として今に及んだ。第八世宥憲代、安永九年に、本堂の造立、第十世盛演代、寛政元年に諸造作・入佛養等が營まれ、大正八年、第二十二世淸順法印代、舊來の本堂を廢して、新に之を造立したが、偶、大正十二年の大震災に、堂宇は倒壊の厄に遭ひ、現住第二十三世中田生運が、大正十三年に、本堂・鐘樓堂・山門等を再建した。
本尊
本尊は大日如來 の木造坐像、長一尺五寸。弘法大師と云ふ。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


金剛寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」


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