鶴見神社|横浜市鶴見区鶴見中央の神社

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鶴見神社|延喜式神名帳の杉山社論社、鶴見七福神の寿老神

鶴見神社の概要

鶴見神社は、横浜市鶴見区鶴見中央にある神社です。鶴見神社の創建年代は不詳ですが、かつて杉山社と称し、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている杉山社に比定される社とも、鎌倉時代(北条氏)の頃の創建とも推定されます。明治6年村社に列格、大正9年社号を杉山明神牛頭天王相殿から鶴見神社へと改称したといいます。鶴見神社境内からは古墳時代の貝塚が発掘されたほか、鶴見川橋付近にあった寺尾稲荷道道標が保存されています。鶴見七福神の寿老神です。

鶴見神社
鶴見神社の概要
社号 鶴見神社
祭神 素戔嗚尊、五十猛命
相殿 -
境内社 大鳥社、稲荷社、秋葉社、関神社、祖霊社、清宮社、富士浅間社、多賀社
住所 横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
祭日 例大祭・天王祭7月第4金曜日
備考 旧鶴見村鎮守、旧村社



鶴見神社の由緒

鶴見神社の創建年代は不詳ですが、かつて杉山社と称し、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている杉山社に比定される社とも、鎌倉時代(北条氏)の頃の創建とも推定されます。明治6年村社に列格、大正9年社号を杉山明神牛頭天王相殿から鶴見神社へと改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による鶴見神社の由緒

(鶴見村)杉山明神牛頭天王相殿
海道より50間程引いりて右の方にあり。此村の鎮守なり。此杉山神社は勧請の年暦も傳へざれど、昔より此社にて毎年正月16日の夕方、百姓等がうたひをどる明神の田祭うたと云ものあり。殊に古風なるものにて関東の守護三島大明神といへることあり。是らにても北条の頃の物たることしるべし。その余には證とすべきこともなし。例祭年毎に杉山の明神は正月16日、天王は6月7日より14日迄なり。石鳥居を前に立、又木の鳥居もたてり。
末社浅間祠。本社に向ひて左の方に山あり。黒ほくといふ。石を以て積上たる小山なり。其上に祠たてり。拝殿9尺四方本社1間四方にて東向なり。
稲荷小祠。是は向て右にあり。
別当最勝寺。社に向て鳥居の外左の傍にあり。瑠璃山医王院と号す。天台宗にて同郡駒林村金蔵寺の末なり。開基開山詳ならずされど、慶長10年の起立なりと云傳ふ。本尊は不動の立像長2尺許り。客殿は6間に4間半也。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による鶴見神社の由緒

鶴見神社
当社は天保の始め国学者黒川春村の編である「杉山神社神賀歌考証」に詳述しているが、延喜式内社である事は有力である。その創建は推古天皇の御代に当り剣を以て神体としている。昌泰年間(八九八~九〇〇)社殿の造営あり、(天台宗西照寺が別当であった。元来当神社の主神は五十猛命であるが、その父神である素盞鳴命を配し合祀したので、これより牛頭天王と奉称した。元亀之年兵乱の為社殿災上し古文書類多く烏有に帰した。宝暦三年(一七五三)正月十六日黒川四郎左衛門新殿を造営、その後嘉永六年六月七日佐久間権蔵社殿を改築、明治三年四月牛頭天王は八坂大神に、杉山大明神は杉山明神と改称し、同六年十二月村社に列せられた。同三十三年一月十一日焼失、大正四年十一月九日御大典記念として社殿を再建、遷宮式を執行した。同八年七月十一日神供幣烏料供進社に指定され、同九年二月十日鶴見神社と改称された。神社庁指定神社。(神奈川県神社誌より)


鶴見神社所蔵の文化財

  • 鶴見神社境内貝塚(横浜市指定史跡)
  • 寺尾稲荷道道標(横浜市有形民俗文化財)
  • 田祭り(杉山祭り)

鶴見神社境内貝塚

この貝塚は、横浜市北部を流れ東京湾に注ぐ鶴見川の河口近くの沖積低地に位置します。平成二十年二月の発掘調査で、本殿前の東西約五~八m、南北約十mの範囲に、厚さ七十~八十cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認されました。また、周辺からは、貝塚と関連が想定される古墳時代前期の竪穴住居跡も発見されています。この貝層を構成する貝種は、二枚貝ではカガミガイ・ハマグリ・巻貝ではイボキサゴが主体であり、、八種類以上の鹹水産貝種からなっています。
一般に貝塚は、縄文時代のものが多く知られていますが、この時期のものが良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です。(横浜市教育委員会掲示より)

寺尾稲荷道道標

寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」
右側面には「是より廿五丁」
左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」
とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。(横浜市教育委員会掲示より)


鶴見神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿