善了寺。横浜市戸塚区矢部町にある浄土真宗本願寺派寺院

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大鳥山善了寺。武田信玄の武将大久保伊豆守信唯が中興

善了寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の善了寺は、大鳥山寶林院と号します。善了寺は、当初真言宗寺院として和泉村にありましたが、江戸麻布善福寺了海の弟子釋了全(弘安8年1285年寂)が浄土真宗寺院に改め開山したといいます。釋了唯(俗称大久保伊豆守信唯、武田信玄の武将)が中興したといいます。

善了寺
善了寺の概要
山号 大鳥山
院号 寶林院
寺号 善了寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 横浜市戸塚区矢部町125
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



善了寺の縁起

善了寺は、当初真言宗寺院として和泉村にありましたが、江戸麻布善福寺了海の弟子釋了全(弘安8年1285年寂)が天福元年(1233)浄土真宗寺院に改め開山したといいます。釋了唯(俗称大久保伊豆守信唯、武田信玄の武将)が中興したといいます。

新編相模国風土記稿による善了寺の縁起

(矢部町)善了寺
浄土真宗西六條本願寺末、大鳥山寶林院と号す。本尊弥陀長二尺五寸蓮如作、古は真言宗にて和泉村に在り、天福元年釋了全、江戸麻布善福寺、了海が弟子、弘安八年三月寂す、当宗に改む、故に了全を開山とす。其後釋了唯、唯は俗称を大久保伊豆守信唯と云ひ、武田信玄に仕ふ。晩に紀州に赴きし時、偶同国にて、本願寺顕如に謁し、弟子となり、名を了唯と改め、洞庵と号す。後家臣磯利嘉右衛門・同嘉左衛門の兄弟二人を招具し、当村に来たり当寺を中興し、天正十五年四月八日死す。此地に引て中興すと云ふ。
寺寶
弥陀木像一体、聖徳太子作、長一尺二寸
聖徳太子木像、親鸞作、長一尺三寸五分
大日木像一体、弘法作長四寸。
法然木像一体、親鸞作、長九寸五分
顕如木像一体、自作、長七寸
善導大師真影一幅、法然筆
九字名号一幅、覚如筆
六字名号一幅、蓮如筆
洪鐘、正徳二年鋳造す。(新編相模国風土記稿より)

「戸塚区郷土史」による善了寺の縁起

大島山宝林院と号し、真宗本願寺派西本願寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来(蓮如作)、往昔は真言宗にぞくし、戸塚和泉町主水分(門徒分)にあり、天福元年(一二三三)江戸麻布善福寺了海の弟子釈了全(弘安八年三月寂)が浄土真宗に改めたといわれ、その後武田信玄の家臣大久保伊豆守秀唯の子加右衛門信唯が紀州に行ったとき、たまたま本願寺宗主顕如に謁して、その法弟となり、釈了唯(号洞庵)と名乗り、家臣の磯利嘉右衛門兄弟をつれて当地に来住、時に衰微その極に達していた当寺を見るにしのびず、現在地に寺地を移して中興した。従って了全を開山、了唯(天正十五年四月八日寂)を中興とし、中興の忌日にちなみ、現在恒例法要は八の日に行うことにしている。しかるに慶応三年十月十二日鐘楼を残して全焼し、明治二年再建、その後、関東大震災により半潰修繕を加えたが、昭和二十年十月新本堂を再建した。。(「戸塚区郷土史」より)


善了寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿