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猫の足あと

醫王山多聞院。横浜市中区本牧元町にある高野山真言宗寺院

醫王山多聞院の概要

高野山真言宗寺院の多聞院は、醫王山成願寺と号します。多聞院は、弘法大師が開基となり弘仁3年に創建、弘長年間に海中出現の藥師如來を安置したと伝えられ、觀譽法印(天正13年1585年寂)が中興したとも、開山したともいいます。清尊法印(寛永9年1632年寂)が中興、天正19年(1591年)には徳川家康より十二天神社(本牧神社)の別当寺として12石の御朱印状を拝領したといいます。東国八十八ヵ所霊場44番、横浜觀音三十三観世音霊場19番、横浜弘法大師二十一箇所18番です。

多聞院
多聞院の概要
山号 醫王山
院号 多聞院
寺号 成願寺
住所 横浜市中区本牧元町町2-16
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 -



醫王山多聞院の縁起

多聞院は、弘法大師が開基となり弘仁3年に創建、弘長年間に海中出現の藥師如來を安置したと伝えられ、觀譽法印(天正13年1585年寂)が中興したとも、開山したともいいます。清尊法印(寛永9年1632年寂)が中興、天正19年(1591年)には徳川家康より十二天神社(本牧神社)の別当寺として12石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による醫王山多聞院の縁起

(本郷村)十二天社別當
多門院。
村の中程、本社よりは八丁を隔つ、古義真言宗、石川寶生寺の末、醫王山成願寺と號す、開山観譽、天正十三年十一月二十四日寂、中興清存寛永九年四月十九日寂す、客殿に不動を安し、本尊薬師は別堂に安置す、薬師は仏物なれど何人の作なると傳へず、十二天領の御朱印は當院に蔵せり。
御影堂。當院の代々を安す。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による醫王山多聞院の縁起

多聞院
位置
多聞院は醫王山成願寺と號し、中區本牧町牛込二千七百二番地にある。境内は八百四十二坪。高野山金剛峯寺の直末で、寺格は五等、市内觀音三十三所の第十九番同弘法大師二十一箇所の第十八番の靈場である。
寺傳には、弘仁三年、弘法大師の開基で、弘長年間に海中出現の藥師如來を安置するとあるが、新編武藏風土記稿には、觀譽法印の開基で、淸尊法印が中興したとある。觀譽の寂年は天正十三年十一月二十日で、清尊の寂年は寛永九年四月十九日であるから、これから推すと、當寺の創立は、小田原北條氏分國の頃かと思はれる。一說には、永祿年中、觀譽法印の再興とも云ふが、明かでない。古來、同地十二天社の別當を兼帶して居たので、天正十九年、德川家より寄進の十二天社領十二石の内、六石は、當院へ配當された記錄がある。寛永十年二月十五日議定の關東古義眞言宗本末竝寺領有無帳に寶生寺末寺、本牧多聞院。御朱印十二天領拾二石、社中不入と載せてある。慶長・寛永の頃、淸尊法印が住持した。法印は學德兼備の高僧で、寺門の中興を遂げた。寛永十六年に不動明王を造立し、寛永五年に、淸尊法印の木像を造り、元祿十四年六月に、第十二世隆辨が不動明王の脇侍二童子を造立し、叉、淸尊法印木像の修理をした。同十六年十一月二十三日、大震災に罹つて堂宇が破壊したので、享保七年、辨雅の代に、桁行九間、梁間六間半の本堂及び桁行・梁間各ゞ一間半の表門の再興を遂げた。安永三年の仲冬に、第二十八世衞王法印は、梵鐘を鑄造した。維新の際、十二天社、竝に矢野稻荷・伊勢宮・第六天社・天神社の別當を退き、明治七年、市内增德院の末寺となつた。大正十一年十一月、庫裡を造立し、同十二年七月、更に玄關を造立し、其規模を改めたが、不幸同年九月一日、大震災に遭ひ堂宇の大半を倒潰した。次いで復興の工を起し、翌十三年六月、先づ本堂の再建を遂げ、次いで諸堂の復舊を果し、大正十五年六月二十九日、金剛峯寺の直末となつた。
本尊
本尊は不動明王の坐像、高二尺八寸、寛永十六年の造立。脇侍二童子の立像、高各ゞ一尺四寸、元綠十四年造立。
堂宇
現今の堂宇は、本堂桁行八間半、梁間四間、四注造、亞鉛葺。・庫裡建坪五十三坪二五、瓦葺、附屬役僧部屋、二間、七間。・玄關七坪、 亞鉛葺。
鐘數桁行一間半、梁間一間半。・藥師堂桁行二間半、梁間二間半、方形造、瓦葺。・表門桁行一間半、梁 間一間半、瓦葺。・裏門亞鉛葺等である。
境外佛堂。
御影堂。桁行五間、梁間三間。敷地は二十坪三合。官地有。本尊は阿彌陀。
尾崎堂。桁行五間、梁間三間。敷地は三十五坪。官有地。本尊は阿陀彌。(「横浜市史稿 佛寺編」より)


醫王山多聞院の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「横浜市史稿 佛寺編」



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