西教寺。横浜市南区三春台にある真宗大谷派寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

法皇山西教寺。寛永18年幸手市に創建、明治36年当地へ移転

西教寺の概要

真宗大谷派寺院の西教寺は、法皇山と号します。西教寺は、了円が寛永18年(1641)幸手市に創建したといいます。明治36年伊藤大忍師が西教寺の名跡を当地へ移し中興したといいます。

西教寺
西教寺の概要
山号 法皇山
院号 -
寺号 西教寺
住所 横浜市南区三春台137
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 公式ページ:真宗大谷派法皇山西教寺



西教寺の縁起

西教寺は、了円が寛永18年(1641)幸手市に創建したといいます。明治36年伊藤大忍師が西教寺の名跡を当地へ移し中興したといいます。

新編武蔵風土記稿による西教寺の縁起

(幸手領神明内村)西教寺
浄誓寺末、本尊弥陀、開山了円寛永十八年十月起立す。(新編武蔵風土記稿より)

「横浜市史稿 佛寺編」による西教寺の縁起

西敎寺
位置及寺格
西敎寺は、法皇山と號し、中區南太田町字庚耕地千三百四十四番地にある。境内は三百七十八坪五合五勺。大谷派本願寺の末寺で、寺格は内陣地である。
沿革
明治三十七年六月十七日、伊藤大忍が、武藏國北葛飾郡權現堂川村西敎寺の寺籍を移して建立したものである。是れより先、大忍は、當市久保山が寺院の叢淵であるにも拘らず、未だ眞宗所屬の寺院がないを遺憾とし、前年現境内を拓き、假に六十餘坪の一堂を建設し、布敎の基礎を立てたが、進めてこれを一寺となすのは認可が容易でないと思ひ、茲に西敎寺の名籍を移して、寺號を公稱するに至つたのである。因に、舊西敎寺は延享四年の創立であるが、其後廢頽して、僅かに寺籍のみを存するの有樣であつたと云ふ。大正九年、桁行七間、梁間八間半の本堂を完成したが、大正十二年九月一日の大震災に倒潰したので、其後鐵筋コンクリート造の本堂を建立した。
本尊
本尊は阿彌陀如來の立像である。(「横浜市史稿 佛寺編」より)

「南区の歴史」による西教寺の縁起

法皇山西教寺
武蔵国北葛飾郡神明内村(元禄の頃には志辺内村と書いた)の谷中山善照院顧泉寺末の同村通光山平親院浄誓寺末の西教寺は、寛永一八年(一六四一)一〇月、了円を開山に、阿弥陀を本尊として同村に草創した。『横浜市史稿』では延享四年(一七四七)に西教寺は創建したとある。その後、次第に寺運は衰微して明治時代に至ってはほとんど廃寺に等しく、本堂庫裡も腐朽して取り毀はし、無住のため付近の同宗浄誓寺住職広川皆順が兼務住職となって寺務を存する状態にあった。明治四〇年六月、本山大谷派東本願寺別院の初代輪番職に就任した伊藤大忍は、横浜市に一寺の建立を念願したが、新寺の設立は法規によって禁止されていたので、前記の西教寺が廃寺同様の状態にあることを聞知して、西教寺を当地に移転再興を考え百方奔走した。まず現在地に二七五坪の敷地を購入し大正九年三六坪瓦葦の本堂と、二四坪板葦の庫裡を古材をもって建立したが、堂字の狭随と建造物の腐朽によって、大正一一年七間四方木造瓦葺入母屋造りの堂字を新築した。ところが大正一二年の関東大震災により建物全てが倒壊してしまった。現在の堂宇は本堂七間、奥行八間、入母屋造瓦葺、昭和五年五月起工、翌六年六月竣工、鉄筋コンクリート造。庫裡、木造瓦葺建坪八八坪。昭和四年四月起工、同年一〇月竣工。横浜大空襲にも被害はなかった。現在の堂字は本堂間口七間、奥行八間、入母屋造瓦葺、昭和五年五月起工、翌六年六月竣工、鉄筋コンクリート造。庫裡、木造瓦葺建坪八八坪。昭和四年四月起工、同年一〇月竣工。、横浜大空襲にも被害はなかった。(「南区の歴史」より)


西教寺の周辺図


参考資料

  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)