綱島諏訪神社|横浜市港北区綱島東の神社

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綱島諏訪神社|甲州武田の旧家臣が、慶長10年頃に創建

綱島諏訪神社の概要

綱島諏訪神社は、横浜市港北区綱島東にある神社です。綱島諏訪神社は、天正年間(1573-1592)以降に当地を領有していた近藤五郎右衛門正次を首領とする甲州武田の家臣が、慶長10年(1605)頃に創建したといいます。江戸期には綱島神明社とともに南綱島村・北綱島村の鎮守社として崇敬され、明治6年には村社に列格したといいます。

綱島諏訪神社
綱島諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 金刀比羅宮、稲荷神社、荒井社
住所 横浜市港北区綱島東2-10-1
祭日 8月27日
備考 -



綱島諏訪神社の由緒

綱島諏訪神社は、天正年間(1573-1592)以降に当地を領有していた近藤五郎右衛門正次を首領とする甲州武田の家臣が、慶長10年(1605)頃に創建したといいます。江戸期には綱島神明社とともに南綱島村・北綱島村の鎮守社として崇敬され、明治6年には村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による綱島諏訪神社の由緒

(南綱島村)諏訪社
字下にあり、是も(綱島神明社と共に)南北の鎮守にて前に鳥居をたつ、石階三十五級を登り又五十数をよちて社前にいたる、神體坐像にて長九寸許前に神鏡を置り、勧請の年代詳ならず、例祭七月二十七日同郡駒林村金蔵寺持。
末社稲荷社。石階を登りて左の方にあり二間半四方の祠なり、前に木の鳥居をたつ。
金毗羅。是も同所にあり五尺四方の祠なり北に向ふ、前に三十一級の石階段を設く。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による綱島諏訪神社の由緒

綱島は往昔綱島三郎信照の采邑で、永禄の頃武田家の家臣が信濃国諏訪明神を勧請し社殿を建立した。新編武蔵風土記稿に「諏訪社、字下にあり是も南北の鎮守にて前に鳥居を建つ、石階三十五級を上り又五十級よじて社前に至る、神像長さ九寸許、前に神鏡を置く、勧請詳かならず、例祭七月二十七日」とある。明治六年十二月村社に列格。昭和四十八年壮大な社殿が完成、同四十九年一切の整備を竣功した。(神奈川県神社誌より)


境内掲示による綱島諏訪神社の由緒

当地は往昔綱島三郎信照の采邑であり、天正(一五七三年〜)の頃は近藤五郎右衛門正次を首領とする甲州武田の家臣が各々領有していた。「綱島十八騎」と聞こえし武田の家臣団は信玄に倣って信濃の国諏訪明神を深く信仰し、その境内から桜の一枝を折り、此の地に下る時、馬の鞭として馳せ参じた。
綱島の山上に来て遠く信濃の国を遥拝し「我が武運の長久を守らせ給え、若しその験しあらばこの桜の枝に根を付かせ給へ」と念じ地に指した処、根が生じ年を経て大木に育った。将にその霊験は、小田原攻め・関ヶ原での勲功に顕れ、知行を受けて神威の顕現を報謝し、茲に慶長十年頃(一六〇五年頃)諏訪明神を勧請して当社を創建したと伝わる。
現在残る記録によれば元禄十二年(一六九九年)に再建が営まれ、その後数度の造営の後、明治六年南北綱島の鎮守として村社に列格。
大正十二年震災のため倒壊したが昭和元年に再建。しかし、昭和三十六年七月十日、不審火により神体像をのぞく本拝殿等悉く消失する。爾来十年余の歳月、仮殿での奉斎を余儀なくされたが、多くの町民の赤誠溢れる奉賛と懸命の努力により、昭和四十八年現社殿竣功。十月二十七日正遷座祭が斎行され面目を一新する。平成二年には御大典奉祝事業として玉垣建立及び境内整備完工す。(境内掲示より)

綱島諏訪神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿