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富岡八幡宮|横浜市金沢区富岡東の神社

富岡八幡宮の概要

富岡八幡宮は、横浜市金沢区富岡東にある神社です。富岡八幡宮は、建久2年(1191)源頼朝が、富岡郷鎮護のために難波蛭子尊を勧請して創建、安貞元年(1227)祭神を八幡神に斎い替えたしたといいます。歴代領主の崇敬を受け、江戸期には富岡村の鎮守社だったといい、明治6年村社に列格、大正2年神饌幣帛料供進神社に指定されたといいます。横浜金澤七福神の恵比寿天です。

富岡八幡宮
富岡八幡宮の概要
社号 八幡宮
祭神 応神天皇
相殿 神功皇后、蛭子命、天照皇大神
境内社 祖霊社、稲荷社、熊野社
住所 横浜市金沢区富岡東4-5-41
祭日 例大祭7月15日・湯立神楽9月25日
備考 -



富岡八幡宮の由緒

富岡八幡宮は、建久2年(1191)源頼朝が、富岡郷鎮護のために難波蛭子尊を勧請して創建、安貞元年(1227)祭神を八幡神に斎い替えたしたといいます。歴代領主の崇敬を受け、江戸期には富岡村の鎮守社だったといい、明治6年村社に列格、大正2年神饌幣帛料供進神社に指定されたといいます。

新編武蔵風土記稿による富岡八幡宮の由緒

(富岡村)
八幡社
除地、小名八幡山にあり、本社一丈四方、上屋四間四方、拝殿三間に四間東向、前に僅の石階あり、石の鳥居を建、村の鎮守なり、縁起を見に、建久二年右大将頼朝卿、富岡庄民家鎮護のため、攝津國難波蛭子尊を勧請す、則當社なり、其後安貞元年六月十五日、村民の家へ僧来りて食を求しに、今日鎮守祭禮に供する麦酒ありとて、これをすすむ、僧のいはく、吾は八幡大菩薩なり、今よりして吾を祀らば悪魔を退け、加護すべしとて去ぬ、是よりして當社を八幡と崇め祀れり、其後明應以来兵亂によりて、社頭荒廢せしを、慶長十五年當所の地頭、豊嶋刑部少輔社頭を造營す、其時の棟札今に蔵せり、例祭六月十五日、八月二十五日の兩度にて、瀬戸明神の下社家佐野肥後守執行す。
鐘楼。本社に向て右にあり、地頭八木氏の造立にして、鐘銘はなく、朝臣八木但馬守宗直、同十三郎、明暦二年霜月吉日とのみ刻す。
末社稲荷社。御靈社。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による富岡八幡宮の由緒

建久二年(一一九一)源頼朝が、富岡郷鎮護のため摂州難波の西の宮の末社を建立、御正躰を奉遷して以来、六月十五日と八月二十五日の両度の例祭を続けて来たが、安貞元年(一二二七)六月十五日の例祭当日、八幡大神があらわれ、「今日より吾を斎い祀れ、信心の輩は悪魔を祓い哀憐をたれ加護すべし」と託宣があり、即ち当社を八幡宮に斎い替えたと伝える。正中二年(一三二五)藤原貞泰大般若経六百巻を寄進、天正十四年以降領主の社殿修造も屡々行われた。寛永二年地頭豊島明重奉新造営の棟札裏書には「鎌倉鶴岡八幡宮去甲子年御造営の砌悉皆末社等迄畢 当社代々造営寉岡八幡宮被成処也 当社八幡是寉岡八幡宮御勧請被成故也 小破の時当地地頭可被成者也、仍而如斯為後證辛巳金沢竜華寺勒之、正年八十三才而是書」とあって、鶴岡八幡宮との深い縁故が知られる。
社家は鎌倉時代より佐野家が神主或は禰宜の職掌を世襲、徳川時代には吉田神道に属して、富岡郷八幡宮祠官の職名を以て神勤、一社の伝統を保持して来た。別当社僧職は寛永初期まで金沢の竜華寺で、その後は明治二年神仏分離に至るまで富岡の慶珊寺の職掌であった。領主は寛永初期までは豊島明重、寛永の中頃から元禄年中は八木高重の子孫、宝永以後榊原勝興の子孫が地頭であったが、何れも社殿の修造営に力をつくした。
明治維新に際して旧神号八幡大菩薩の呼称を廃して八幡宮と改め、同時に氏子区域を富岡村と定め、明治六年十二月村社に列格した。同十年境内鍾楼を撤去、金沢竜華寺に寄贈。大正二年三月神饌幣帛料供進神社に指定された。同十三年九月三十日豪雨のため境内丘陵崩潰し、本殿の覆殿一六坪と拝殿七坪を全潰したが、本殿は無難であった。同十五年九月二十五日拝殿の復興造営竣工を見た。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による富岡八幡宮の由緒



富岡八幡宮所蔵の文化財

  • 絹本著色八幡神像一幅(横浜市指定有形文化財)
  • 祇園舟(横浜市指定無形民俗文化財)
  • 梵鐘明暦貮年丙申霜月吉日の銘がある(横浜市指定有形文化財)

絹本著色八幡神像一幅

縦九九・八、横四二・六センチメートル
白地に瑞雲文の束帯を着け、右手に矢、左手に弓を持ち、太刀を身に付けた若々しい神像である。
裏箔、裏彩色を施した華麗な描法で、唇や耳の表現などは、桃山期の武将像に似かよっている。戦国末期ないしは安土桃山時代の制作と見て誤りないものと思われる。
沓などの若干の補彩が見られるものの、総じて原初の姿を残し、全国的に見ても、当代における肖像画の秀作の一つに数えられる。(横浜市教育委員会掲示より)

祇園舟

祇園舟は富岡八幡宮に伝わる特殊神事で、古来、旧暦六月十五日に行われていた夏越の祓の神事で、市の東南端海岸部に伝わる類似の行事の中でも最も古い伝承を持つ行事です。
青茅で作った長さ70センチ、幅50センチほどの楕円形の舟にお供え物として折敷に小麦の粒を敷き、その上に大麦の粉で作っただんごを置き、麦麹で醸した甘酒をかけたものを乗せ、舟縁には一年分十二本の御幣を並べ立て、中央には大きな御幣を並べ立てて、沖合遠く流します。青茅の舟と御幣に一年間の罪穢を託して流し遣る夏越の祓と、収穫した麦の初穂を海の神にお供えし、五穀の豊穣と海の幸の豊漁に感謝する要素が一緒になったものといわれます。
八幡丸・弥栄丸と呼ばれる二隻の艪舟で行われ、沖合の潮の流れのよいところまで進むと二隻の間から茅舟を放流し、帰ろは岸まで全速力の競漕で帰る勇壮なもので、宮の前が埋め立てられた今日でも優雅な雅楽の音とともに昔ながらにとり行われ、無形民俗文化財として貴重です。(横浜市教育委員会掲示より)

梵鐘明暦貮年丙申霜月吉日の銘がある

本梵鐘は青銅製の鋳造品で、江戸梵鐘の形跡に移る時期の和鐘です。
銘文によると明暦二年(一六五六)に当時の家老や代官・名主が連名で願主となり、領主八木但馬守宗直と子息の武運長久子孫繁栄を願ったもので、『新編武蔵風土記稿』にも当社に梵鐘と鍾樓を八木氏が寄進したことが記されています。
戦時下の金属供出のため、江戸前期の梵鐘は極めて少なく、文献に記され現在まで同じ場所に伝えられているという伝来性は、貴重な存在です。(横浜市教育委員会掲示より)

富岡八幡宮の周辺図