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猫の足あと

相応寺。横浜市神奈川区七島町にある浄土宗寺院

相応寺の概要

浄土宗寺院の相応寺は、吉祥山惠光院と号します。相応寺は、秀誉善公上人(文亀3年1503年寂)が開山となり、文明年間 (1469-1487)に創建したといいます。

相応寺
相応寺の概要
山号 吉祥山
院号 惠光院
寺号 相応寺
住所 横浜市神奈川区七島町144
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



相応寺の縁起

相応寺は、秀誉善公上人(文亀3年1503年寂)が開山となり、文明年間 (1469-1487)に創建したといいます。

新編武蔵風土記稿による相応寺の縁起

(東子安村西子安村新宿村)相應寺
海道にあり往還より少しく引こめり、浄土宗にて神奈川慶雲寺の末吉祥山惠光院と稱す。客殿七間四方にて東向、本尊阿弥陀の立像にて長三尺五寸作知れず、開山秀誉文亀三年八月十一日寂せり。
鐘楼。門を入て右の方にあり、天明三年の銘あり。
庚申堂。是も門を入て右にあり、石像の庚申を置。
石地蔵。門外にあり、長三尺寛文三年をけり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による相応寺の縁起

文明年間 (一四六九~一四八七)に秀誉善公上人が本寺であった慶雲寺の山号をそのまま受けて当寺の山号とし、念仏を布教する道場として創立した処という。
享保年間に、第二二世祐誉上人が、本堂と庫裡の建立を行った。客殿は七間四方と『新編武蔵風土記稿』に記載されているのが本堂であった。
天明三年、第二六世の順誉上人が梵鐘を再鋳している。鋳物師は江戸の西村和泉守政平であった。
明治元年一月七日神奈川宿の大火で類焼した。明治三年に第三二世徴誉上人が本堂・庫裡を再建した。大正一二年九月一日の関東大震災で本堂ほか建造物の悉くが倒壊した。
罹災直後、仮本堂ほかを再興した。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による相応寺の縁起

相應寺
位置及寺格
相應寺は、吉祥山惠光院と號し、神奈川區子安町百六番地にある。境内は三百九十七坪。神奈川町慶雲寺末で、寺格は準別格一等である。
沿革
文明年間に、秀譽善公上人が本寺慶雲寺の山號を受けて、吉祥山と稱し、念佛宣布の道場として創立した所といふ。享保年間に、第二十二世祐譽上人が中興して、本堂竝に庫裡の建立を遂げた。新編武藏風土記稿に、客殿七間四方と記してあるのは、この本堂である。天明三年に、第二十六世順譽上人が梵鐘を再鑄した。明治元年一月七日神奈川宿大火に類燒したので、明治三年に、第三十二世徵譽上人が建坪四十九坪の本堂及び庫裡を再建した。明治五年の本末寺院明細帳に、境内四段一畝十八步、除地。檀家百九十一戸と記してある。大正十二年九月一日、大震災に罹り、本堂以下悉く倒潰したので、直後假本堂を建て、續いで庫裡・鐘樓・釋迦堂等の再興を遂げた。
本尊
本尊は阿彌陀如來立像、高三尺五寸である。
堂宇
現今の堂宇は、假本堂桁行四間、梁間四間半、方形造、亞沿板葺。・庫裡桁行六間、梁間七間、亞沿板葺。・鐘樓・表門及び境内佛堂等である。
境内佛堂
境内佛堂、釋迦堂。本尊は釋迦如來、脇に閻魔大王及び地藏菩薩が安置してある。此堂は元、新宿の海道筋海岸の方にあつて、閻魔堂と稱へられて居た。昔は當寺の隱居寮であつたと云ふが、維新後、境内に移轉して、釋迦堂と改稱された。堂宇は、二間半四方の入母屋造、亞鉛葺である。
往時は右閻魔堂と竝んで、鵜森稻荷があつたと新編武藏風土記稿に載せてある。僧萬里の梅花無盡藏神奈河の詩に「神奈民鄽板屋連。深泥沒レ馬打難レ前。鵜森春動臥松老。未レ入飛龍九五乾。」と出で、其自註に「二日世戸井を出で、江戸に赴く、途中に老松の屈檠する有り、其の形龍の如し。其の處を鵜森と號す。」とあるのは、蓋し此所であるか。同地藏堂。小堂で石の地藏尊が立てゝある。(「横浜市史稿」より)


相応寺の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」


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