猫の足あとによる横浜市の寺院、神社など横浜市の寺社案内 猫の足あとによる横浜市の寺院、神社など横浜市の寺社案内
猫の足あと

遍照院。横浜市神奈川区子安通にある高野山真言宗寺院

遍照院の概要

高野山真言宗寺院の遍照院は、密厳山と号します。遍照院の創建年代等は不詳ながら、祐等法印が長禄2年(1458)に創建、一宮神社近くにあり、安入山と号していたと言います。徳川家康入国の後当地へ移転、密厳山と改めたといいます。東国八十八ヵ所霊場16番です。

遍照院
遍照院の概要
山号 密厳山
院号 遍照院
寺号 -
住所 横浜市神奈川区子安通3-382
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 遍照院会館
備考 -



遍照院の縁起

遍照院の創建年代等は不詳ながら、祐等法印が長禄2年(1458)に創建、一宮神社近くにあり、安入山と号していたと言います。徳川家康入国の後当地へ移転、密厳山と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による遍照院の縁起

(東子安村西子安村新宿村)遍照院
是も東子安の内海道より少しく北の方へ入てあり、古義真言宗にて同郡鳥山村三會寺末なり、密厳不動峯と稱す、開山開基詳ならず、第四世を宥慶と云是慶安二年九月十三日寂せり、是より前の世代は知すと云、客殿十四間半に五間半、本尊不動立像にて長二社句許作傳へず、此寺往昔は昔の鎮守一宮社地の邊にありし由、其頃は山号を安入山といへりと云、御入国の後今の所へうつせりと、門は巽に向へり。
稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による遍照院の縁起

密厳山不動寺遍照院(高野山真言宗) 子安通三丁目三八二番地
沿革 当寺はじめ一之宮明神附近にあって、一之宮明神・天神・神明・愛宕など四社の別当を兼帯して安入山と号したが、江戸初期に現在地に移転、山号も改めて密厳山にしたという。『新編武蔵風土記稿』には「開山開基詳ナラズ」とあるが寺伝によると長禄二戊寅年(一四五八)、祐等法印の創立であるとしている。
天明六年七月に、火災によって堂宇・什宝・古記録類に至るまで悉く焼失。再興には数代の努力をかさねたが、明治元年一月七日の神奈川宿の大火で、類焼の厄をまぬがれることができず、山門を残すのみにて再び全焼。
第四四世芳善法印は、明治四二年から翌四三年に堂宇の再興を遂げた。大正一二年九月一日の関東大地震には被害はあったが、倒壊は免がれた。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による遍照院の縁起

遍照院
位置及寺格
遍照院は密嚴不動峯と號し、神奈川區子安町字海道通二千八百四十二番地にある、境内は三百九十六坪。官有地。・鳥山三會寺末の十二等地である。
沿革
寺院明細帳には、後花園天皇の御宇、長祿二戊寅年、祐等法印の創立であると載せてあるが、新編武藏風土記稿には。「開山開基詳ナラズ。第四世ヲ宥慶ト云。慶安二年九月十三日寂セリ。是ヨリ前ノ世代ハ知ラズト云フ。」とある。元の境内は一之宮明神の附近にあつて、同社の別當を勤め、安入山と號したが、德川氏入國の後、今の境内に移り、山號をも今の如く改めたと云ふ。元祿八年の檢地水帳に、一之宮明神・天神・神明・愛宕の別當を兼帶したことが載せてある。
第十九世宥雅法印の世代、天明六年七月、火災に罹り、堂宇・什寶を始め、古記錄に至るまで悉皆を烏有に歸した。其後、數代の努力を重ねて、堂宇の再興を遂げたが、第三十七世龍寂法印の世代、明治元年一月七日に、神奈川宿大火の延燒によつて當院も亦、其厄を被り、僅かに大門のみを残して、一山は再び焦土と化した。第四十四世芳善法印が再興を企て、明治四十二年起工、翌四十三年竣工を遂げた。これが今日の堂宇である。大正十二年九月一日の大震災に大破を受けたが幸に倒潰を免るゝことを得た。
本尊
本尊は不動明王の立像、高二尺許。(「横浜市史稿」より)


遍照院の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」


葬儀社紹介・葬儀相談

葬儀支援ネット