能満寺。横浜市神奈川区東神奈川にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

海運山能満寺。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場、東国八十八ヵ所霊場

能満寺の概要

高野山真言宗寺院の能満寺は、海運山満願院と号します。能満寺は、当所の住人内海甚左衛門の先祖光善(法名海運院光善禪門)が、正安元年(1299)に海中から仏像を発見し開基となり、重蓮法印が開山したといいます。寅歳開扉武南十二薬師如来霊場10番、東国八十八ヵ所霊場18番です。

能満寺
能満寺の概要
山号 海運山
院号 満願院
寺号 能満寺
住所 横浜市神奈川区東神奈川2-32-1
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 東神奈川神明宮のもと別当



能満寺の縁起

能満寺は、当所の住人内海甚左衛門の先祖光善(法名海運院光善禪門)が、正安元年(1299)に海中から仏像を発見し開基となり、重蓮法印が開山したといいます。

新編武蔵風土記稿による能満寺の縁起

能満寺
西側にあり。古義真言宗鳥山三會寺末。海運山満願院と号す。本尊虚空蔵は長5寸許木の坐像なり。相傳ふ正安元年8月13日海中より出現せしを、その頃当所の住人内海甚左衛門が先祖光善といひし人この浦を支配せしにより、此像を拾とりて同年当寺を起立し安置せりと。開山長胤法印は慶長19年閏6月寂せり。本堂は8間に5間巽向なり。
神明社、境内の南につづけり。社地5畝4歩を免除せらる9尺四方の社なり。正安元年の勧請なりと云。前に鳥居をたつ例祭年々9月なり。
稲荷社、これも境内の地につづけり。除地3畝10歩あり。わづかなる祠2ヶ所あり。皆巽の方へ向へり。年々9月の中祭れり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による能満寺の縁起

当寺墓地の片隅に内海家の墓石が並び、その一基の墓石の左側面に「当寺本尊虚空蔵尊正安元己亥八月十三日出現于海中時内海氏先祖光善為此浦支配依而安置当寺」と刻してある。光善が海中出現の虚空蔵菩蕯を本尊として安置し開基となっているが、それ以前に既に寺院があったのではあるまいか。開山は重運法印。幕末の頃は、八間に五間の本堂であった。明治元年一月七日、神奈川宿の大火に類焼して縁起-記録等も焼失した。
隣接する神明社の別当を務め進退したが、神仏分離令によって別れる。
明治一一年、本堂を再建、同四一年庫裡を再建した。大正一二年九月一日の大震災に本堂は倒壊したが、翌一三年五月に復旧した。昭和二〇年五月二九日の横浜大空襲に堂宇、本尊、宝物、過去帳の悉くを焼失した。(「神奈川区史」より)

「横浜市史稿」による能満寺の縁起

能滿寺
能滿寺は、海運山滿願院と號し、神奈川區神奈川町字神明町六百九十四番地にある。境内は六百九十七坪。鳥山町三會寺に隸し、孫末六等である。正安元年、内海光善の開基で、開山は重蓮。本尊は海中出現の靈像と傳へて居る。慶長年中、第二十七世長胤が中典した。往時は本牧の多聞院藤澤の荘嚴寺と共に、關東の三末寺と稱せられたと云ふ。幕末の頃は、八間に五間の本堂を備へて居たが、明治元年一月七日、宿中の大火に類燒し、緣起・記錄等を失つた。往時は境内に鑟いて神明社が鎭座して在り、當寺で之を進退してゐたが、維新の際に分離した。明治十一年、本堂を再建し、同四十一年に庫裡を再建した。大正十二年九月一日の大震災に罹つて本堂は倒潰したが、翌十三年五月に復典を遂げた。
本尊
本尊は虛空藏菩薩の木造坐像、高五寸。正安元年八月十三日、海中出現と傳へる。(「横浜市史稿」より)


能満寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「横浜市史稿」