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大綱金刀比羅神社|横浜市神奈川区台町の神社、旧村社

大綱金刀比羅神社の概要

大綱金刀比羅神社は、横浜市神奈川区台町にある神社です。大綱金刀比羅神社は、江戸幕府の関東郡代伊奈半十郎忠冶が現境内後方の山上に寛永19年(1642)創建したといいます(境内掲示では、文治年間1188年創建としています)。その後現在地(山下)へ遷座、勝軍飯綱権現と称していました。山の中腹にあった金毘羅社を合祀、大綱金刀比羅神社と改称しています。明治15年村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。

大綱金刀比羅神社
大綱金刀比羅神社の概要
社号 大綱金刀比羅神社
祭神 大国主神、金山彦神、大和武尊、大山祇神
内陣 飯綱大権現、金刀比羅大権現、不動明王、愛染明大、船霊社、猿田彦神、鳥天狗神、水天宮、薬師如来、十一面観音
境内社 三宝荒神社、横浜弁財天、稲荷社、龍神社
住所 横浜市神奈川区台町7-34
祭日 例大祭5月16日17日
備考 -



大綱金刀比羅神社の由緒

大綱金刀比羅神社は、江戸幕府の関東郡代伊奈半十郎忠冶が現境内後方の山上に寛永19年(1642)創建したといいます(境内掲示では、文治年間1188年創建としています)。その後現在地(山下)へ遷座、勝軍飯綱権現と称していました。山の中腹にあった金毘羅社を合祀、大綱金刀比羅神社と改称しています。明治15年村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されたといいます。

新編武蔵風土記稿による大綱金刀比羅神社の由緒

(下台町)飯綱権現社
海道の西側にて上台町の境にあり。社地は八九丈許の高き山なり。前に石階ありて羊膓の道なり。社傳に云寛永19年伊奈半十郎忠冶建立す。今の社は安永5年太田備中守が再建せる所なりと。本社7尺四方拝殿4間に2間。本社まで2間に3間の廊下をまうく。この社も今は破壊に及びたれば、山下へ別に仮殿を構まへて神体を遷座せり。ここに勝軍飯綱権現の六字をかかぐ。山下に両控作の鳥居をたつ。両柱の間1丈許。刻して云慶安元戌子年8月吉日飯綱権現本地地蔵神主重之と。社前に井あり、是を供水に用ゆ。普門寺持。
末社。
疱瘡神社、本社に向ひて右にあり。
稲荷社二ヶ所、同邊にあり。
子権現社、本社に向ひて左にあり。
稲荷社、同邊にあり。
聖天金毘羅合社、山の半腹にあり。ここに金勝院と云修験者ありて祀を司れり。
舟玉社、坂の中腹にあり小祠なり。(新編武蔵風土記稿より)

「神奈川区史」による大綱金刀比羅神社の由緒

寛永一八年三月、神主長塚常陸守重氷が勧請し、翌一九年九月伊奈半十郎忠治が創立した社であるという。はじめ勝軍飯綱大権現と称して、現境内のある裏山即ち飯綱山にあった。
安永五年太田備中守が再建したというが、四〇年後は社殿が老朽化したので、文政の頃に山下に社殿を移したのが現在の境内地である。弘化三年十一月に、新殿を造営した。
明治二年六月二一日、大綱神社と改称して、別当寺普門寺から分離して神主を立てた。明治一五年一一月一五日、村社に列せられ、明治四〇年四月三〇日神饌幣帛料供進社に指定、同四二年五月一八日に、境内にあった末社琴平神社を本殿に合祀した。
明治四三年八月一〇日の大雨で、背後の懸崖の崩壊によって社屋は倒潰大破したので、翌四四年二月一七日に再建をとげた。(「神奈川区史」より)

「神奈川県神社誌」による大綱金刀比羅神社の由緒

寛永十八年(一六四一)三月神主長塚常陸守重永が勧請した。元は勝軍飯綱大権現と称し、今の境内より上の方俗称飯綱山にあったが、文政の頃山下に仮殿を構えて神殿を奉遷した。明治二年大綱神社と改称し同時に功徳院普門寺の別当を廃し、同四十二年五月十八日境内社琴平神社を合祀した。昭和二十二年九月三十日大綱金刀比羅神社と改称した。(「神奈川県神社誌」より)

「神奈川区宿歴史の道」掲示による大綱金刀比羅神社の由緒

大綱金刀比羅神社と一里塚
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
また、江戸時代には、神社前の海道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。(「神奈川区宿歴史の道」掲示より)


大綱金刀比羅神社の周辺図


参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「神奈川区史」
  • 「神奈川県神社誌」