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福正寺|西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷にある臨済宗建長寺派寺院

福正寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の福正寺は、金龍山と号します。福正寺は、天照林和尚が天台宗寺院として創建、通翁鏡円禅師(普照大光国師、正中元年1324年寂)を勧請、臨済宗寺院に改めて文禄2年(1318)開山したといいます。八世雲峰和尚は正眼寺を、九世梅室和尚は円福寺を、十四世東林和尚は砂川流泉寺を開山するなど、地域に末寺を擁し、江戸時代には寺領10石の御朱印状を拝領していたといいます。狭山三十三観音霊場25番です。

福正寺
福正寺の概要
山号 金龍山
院号 -
寺号 福正寺
住所 西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷1129
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



福正寺の縁起

福正寺は、天照林和尚が天台宗寺院として創建、通翁鏡円禅師(普照大光国師、正中元年1324年寂)を勧請、臨済宗寺院に改めて文禄2年(1318)開山したといいます。八世雲峰和尚は正眼寺を、九世梅室和尚は円福寺を、十四世東林和尚は砂川流泉寺を開山するなど、地域に末寺を擁し、江戸時代には寺領10石の御朱印状を拝領していたといいます。

新編武蔵風土記稿による福正寺の縁起

(殿ヶ谷村)福正寺
金龍山と號す、禅宗臨済派にて、柴崎村普濟寺の末なり、寺領十石の御朱印を賜ふ、本堂は八間半に七間半南向、本尊釈迦の坐像、長三尺餘、開山を普照大光國師と云、正中元甲子年正月に十七日示寂す、開基を天照と云、暦應元寅年正月廿七日寂す、普照國師は本寺の本山鎌倉建長寺の世代の内なりと云は、是當寺勧請の祖なるべし。堂中に村山土佐守が位牌あり、左に玉窓妙金大姉、下に楽叟常雅信士とあり、卒日をしるさず、又當寺の過去帳をみるに、天暁雲山天正年中八月廿一日、村山土佐守事、楽叟常雅楽助事とあり、されど前に出せる阿豆佐美社の棟札とは、年代あはざれば疑ふべし、又境内にある観音堂は、天文十五年の再興なれば、古き寺なることは疑ひなけれど其詳なること傳へず。
鐘楼。二間四方境内にあり。
観音堂。門を入て正面にあり、三間に三間半、観音の像は長一尺五寸餘の坐像にて、運慶の作、脇士不動・毘沙門各立像にて、長九寸ばかり、臺座の裏に謹奉梅室慶香座元再興者也、當寺旦那村山土佐守、同施主雲峯俊慶座元、殊者為二親佛果、次現世安穏後生善處也云々、于時天文十五丁亥霜月廿八日とあり、これを以てみれば、當寺の開けしはふるきことなるべし。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による福正寺の縁起

天照林和尚(天台宗の僧)の開基にして、文禄二年三月(一三一八)臨済宗として通翁鏡円禅師を勧請し、開山とした。晩年京都万寿寺に出世(花園法皇の綸言による)更に五山上位南禅寺八世に正住さる(後醍醐天皇の詔命による)かくて両帝の帰依厚く、時に正中二年(一三二四)正月二十一日より二十七日の間、勅命により教家対禅家の一大宗論が清涼殿において展開された。その時禅家の大将として通翁鏡円禅師・副将として宗峰妙超禅師が出場して八宗の講師を負堕せしめて、その功により帝より興駕を下賜され、一国の師翁なりと讃えられ、更に普照大光の国師号を勅諡される。
以来十六菊花紋を寺紋として、法灯連綿二十八世の今日に至る。尚昔日当山に五塔頭有りと虞弁録にある。その間・八世雲峰和尚正眼寺を開く・九世梅室和尚円福寺を開く・十三世月叟和尚三百五十遠年諱厳修(中興開山なり)・十四世東林和尚砂川流泉寺を開く・二十二世法谷和尚五百年年大遠年諱厳修(一八二三)全国より法縁の和尚禅士参加記録法堂にあり。・二十七世現住昭和四十一年六百五十遠年諱厳修。その折如来相設置する。昭和五十八年五重塔、十六大阿羅漢建立・昭和五十九年鎮守大弁財天再興金龍瀑築庭、平成二年開山堂再興、平成十年三解脱門、平成十三年邦寧観音建立。(境内掲示より)


福正寺所蔵の文化財

  • 福正寺観音堂

福正寺観音堂

総ケヤキ材、柱真々間口六・七五メートル、奥行八・四五メートル、手前一間は、板敷、吹放で建具なく、次の二間は畳一六畳敷で、正面中央間には左右各二枚の桟戸、他はすべて舞良戸をたてる。奥の一間は板敷で、手毎中央に来迎柱があり、その柱間に仏壇を設け本尊の観音坐像を安置し、背面の中央間は板戸、他はみな板壁である。周囲には勾欄付の濡縁をめぐらす。建築細部の手法は唐様を主とし、少しく和様を混えている。
吹放の間の鏡天井には淡彩の竜の図、畳敷の間の格天井には彩色の花卉鳥獣等の絵がありともに入間市宮寺の人、吉川緑峰(一八〇八〜一八八四)の筆である。(瑞穂町教育委員会掲示より)

福正寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿